横塚川

 撮影地:埼玉県比企郡川島町

 横塚川は延長2.5Km、流域面積8.3Km2の荒川水系の一級河川。
 埼玉県比企郡川島町曲師(まげし)字曲居野を管理起点とし、東へ向かって流れ、
 川島町出丸中郷で入間川の左岸へ合流する。合流地点には横塚樋門が設けられている。
 川島町の区間のみを流れる小河川であり、規模と形態は農業排水路である(注)

 横塚川の管理起点
(1)横塚川の管理起点(上流から) 川島町曲師
 西谷集会所から南東へ100mの地点。県道339号線の脇に
 横塚川の一級河川の管理標石が設置されている。
 起点では出丸専用水路の第二分水と山ケ谷戸
 用水(やまがやと)の流末が合流している。ここから東へ
 700mには荒川の右岸堤防、南へ600mには入間川の
 左岸堤防がある。横塚川の主な水源は
 中山用水(越辺川から取水)の流末である。
   横塚川の支川
  (2)横塚川の支川(上流から) 川島町出丸中郷〜西谷
   (1)から南東へ200mの地点。県道339号線に沿って流れる排水路。
   この排水路は横塚川の北側を並行して流れ、入間川の直前で
   横塚川へ合流している。横塚川は写真上部に見える林
   (自然堤防と思われる微高地)の裾を流れている。自然堤防は
   荒川や入間川の旧流路が形成したものだろう。頻繁に蛇行を
   繰り返し、広範囲に渡っている。写真付近の小字は合の田と
   いう。河川の旧流路跡を開発した水田に顕著な地名だ。

 横塚川
(3)横塚川(下流から) 右岸:川島町曲師、左岸:出丸中郷
 (1)から300m下流。横塚川の右岸は微高地となっていて、
 そこには人家が点在している。人家は土盛り(高さは
 約1m程度)された上に建っている。形態的には水塚だ。
 人家の周囲にはカシやケヤキの木が植えられている。

   
水門を兼ねた橋
  (4)水門を兼ねた橋(上流から)
   左岸:川島町出丸中郷、右岸:上大屋敷
   (3)から1Km下流。この橋はコンクリート製(1スパンの床版橋)だが、
   上流側に堰柱があり、角落しが2門装備できる仕様となっている。
   明らかに水を堰上げしているので、田んぼの用水に使っているのだろう。

 横塚川の終点
(5)横塚川の終点(右岸から) 川島町出丸中郷
 (4)から1.2Km下流、白山神社の付近。写真は入間川の
 左岸堤防上から撮影。横塚川は横塚樋管を経由して
 入間川へ排水される。入間川は近代改修がなされるまで
 この付近で荒川へ合流していた。そのため、川島領の
 水防重点箇所であり、横塚樋管(当時は横塚門樋)も
 明治28年(1895)には、堅牢な煉瓦造りで建造されている。

   
入間川の堤外を流れる横塚川
  (6)入間川の堤外を流れる横塚川(上流から) 川島町出丸中郷
   (5)の地点から撮影。横塚川は入間川の堤外地(河川敷)を約300m
   流れてから入間川へ落ちる。横塚川が入間川の低水路と
   合流する地点は川越市上老袋である。現在は上老袋地区は
   川越市だが、江戸時代は川島領に属し、入間郡ではなく
   比企郡上老袋村だった。この付近の入間川には金衛兵の渡しと
   呼ばれる渡船場があり、出丸中郷と上老袋を結んでいた。

(注)横塚川は古い時代から農業排水路であり、武蔵国郡村誌の
 比企郡出丸中郷村(6巻、p.29)に、横塚川と思われる排水路の記述がある。
 武蔵国郡村誌は明治9年(1876)の調査を基に編纂されている。
 ”悪水:深五尺巾三間
 村の西の方下大屋敷村より来り 東南流して入間川に入る 其間五町五十間”
 最下流の川幅は三間(約5.4m)なので、現在よりも広い。
 また川島郷土誌(大正十五年刊、編集復刻版)、川島町、2001のp.47には
 ”横塚悪水 長
 内百三十間 外百五十間 比企郡出丸村出丸中郷字横塚
  同吐圦 長十二間
 内法横十二尺 高四尺五寸”、p.65の耕地整理事業の趣意書には
 ”横塚排水渠ハ出丸村ノ大部分ト三保谷村ノ一部トノ排水ヲナシ、横塚門樋ニヨリテ
 入間川ニ排水セシム”と記されている。川島領の耕地整理事業(約2,000町歩)は
 明治40年に起工し、大正5年に竣工している。
 吐圦や横塚門樋と記述されているのが、横塚樋管の旧施設(煉瓦造りだった)であり、
 当時から樋管を経由して入間川へ排水していたことがわかる。
 なお、横塚川の名前は出丸中郷地区の小字名である横塚に由来するようだ。


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