巡礼樋管_  本ページの画像は、NIKON COOLPIX 995(334万画素)で撮影しました。

 所在地: 中川、埼玉県幸手市内国府間(うちごうま)  建設:昭和8年(1933)

 巡礼樋管の歴史は古く、最初の樋管は天保12年(1841)に権現堂堤に設けられている。
 島中領(現.栗橋町周辺)の排水を、北側用水(現.葛西用水の支線)の加用水(補給)と
 して使うための樋管であった。この付近では島中領と羽生領の排水が権現堂川へと
 落とされていたので、周辺には領囲みの堤防が配置され、複雑な河川地形を呈していた。
 島中領の排水は島川(羽生領の排水路)の下を伏越して、巡礼樋管へと導水されていた。
 利水体系としては上流側地域の排水を、下流側では用水として再利用するものだが、
 上流側である島中領の主な排水先の権現堂川、庄内古川(現.中川)は、蛇行区間が多く
 河床勾配が緩い、恒常的な排水不良河川であった。
 そのため、巡礼樋管(かつては順礼樋管と称した)は創設当初から、
 用排水の管理方法を巡って上流と下流の利害対立が絶えなかった。
 明治33年(1900)には、巡礼樋管撤去を要求する農民500人が埼玉県庁に向かって
 押し出し(陳情行進)を決行し、警察隊が動員される等の社会問題も発生している(→参考文献)

 追補:巡礼樋管は土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

 川裏から
↑巡礼樋管  川裏から
 順礼樋管は明治32年(1899)には、
 木造から煉瓦造りへと改造されたが、
 同年と翌年に洪水で大破している。
 その原因は政治の絡んだ不正な
 手抜き工事とする説が有力だ。
   川表から
  ↑巡礼樋管  川表から
   権現堂堤の上には樋管名の由来である
   順礼の碑が建てられている。
   巡礼樋管は権現堂堤の中に敷設というよりは、
   樋管の翼壁自体が堤体となっている。
   手前は
堤下用水樋管(昭和8年竣工)。

 銘板
↑銘板
 金属製。旧字体で巡禮樋管と記されている。
 請負人
 巻島藤五郎とある。同氏は
 権現堂川用水記念碑にも請負人として名が
 記されている。巻島家はこの地の旧家だと
 いう。武蔵国郡村誌の葛飾郡権現堂村
 (14巻、p.384)によれば、幸手領水理掛や
 権現堂川堤防取締を歴任している。

   塔と柱
  ↑塔と柵
   樋管の面壁天端には橋梁のような凝った意匠の
   欄干が設けられている。親柱は意外に大きい(50cm角、
   高さ120cm)。柵は建設当初からのものかは
   不明だが、表面には擬木調の化粧が施されている。
   上方に見えるのは、権現堂調整池のみゆき水門。

参考文献:幸手市史 近・現代資料編T、生涯学習課市史編さん室、1988、p.176-180


戻る:[古い水門へ] 関連:[権現堂用水新圦][この付近の中川