都幾川  班渓寺橋から学校橋  [都幾川のページ一覧

 撮影地:埼玉県比企郡玉川村、嵐山町

 都幾川の河畔林
↑都幾川の河畔林(左岸下流から)
 左岸:玉川村田黒、右岸:嵐山町鎌形(かまがた)
 和田橋から600m下流。和田橋の下流では右岸に築堤が
 見られるが、写真の河畔林が出現するので、その区間は
 約200mと短い。この付近では、左岸は畑地があり
 民家が点在しているが、右岸には潅木から成る河畔林が
 広範囲に分布し、都幾川の水辺にまで迫っている。
 都幾川の河床に分布するのは、小さめの礫であり、
 岩はほとんど見られない。
 なお、この付近の左岸の小字は狢ケ谷戸。玉川村には
 上流1Kmの左岸にも宮ケ谷戸という地名がある。
 筆者の経験からすると、谷戸や貝戸という地名は
 河川の周辺に多いようだ。
   班渓寺橋の付近
  ↑班渓寺橋の付近(上流から) 嵐山町鎌形
   都幾川は
班渓寺橋の上流で、わずか500mの間に2度も
   流路を直角に変えている。そのためか、水衝部である右岸側には
   崖と淵が広範囲に分布し、複雑な地形が形成されている。
   班渓寺橋はRC桁橋だが、和風の意匠であり、朱色の欄干と
   擬宝珠が印象的である。橋名は左岸の橋詰に位置する班渓寺に
   由来する。源義高の菩提寺として創建された古刹である。
   嵐山町の区間では都幾川の左岸には県道173号線、右岸には
   県道172号線が並行している。班渓寺橋は県道173号線と
   県道172号線を結んでいる。班渓寺橋から200m下流の左岸には
   歴史の里公園という名の小公園が整備されている。
   公園の対岸へは玉川工業団地から流れ出す木曽殿川が
   合流している。木曽殿とは木曽義仲のことだろう。

 石代堰
↑石代堰(下流から) 嵐山町鎌形
 班渓寺橋から500m下流に位置するのが石代堰。
 農業用水の取水堰(形式はゴム堰)であり、右岸へ
 取水している。嵐山総合運動場の周辺(鎌形から大蔵)に
 広がる水田へは、この堰から水が送られている。
 元来の形式は都幾川に特有な石積みの斜め堰だったと
 思われるが(注1)、近年に改修されたようで、左岸側には
 階段式の魚道が併設されている。石代堰の100m下流に
 架かるのは八幡橋。名前は左岸の鎌形八幡神社(注2)
 由来するのだろう。八幡神社から北へ200mの鎌形小学校
 には、明治38年竣工の
日本赤十字社の旧社屋(埼玉県
 指定文化財)が移築されている。

   
二瀬
  ↑二瀬(槻川の合流、下流から) 嵐山町鎌形
   石代堰から1Km下流、二瀬橋の上から撮影。
   槻川が都幾川へ合流する地点は二瀬と呼ばれている。
   2つの浅瀬があり、左が都幾川、右が槻川。
   槻川は秩父郡東秩父村の白石峠付近を源流とする延長25Kmの
   荒川水系の一級河川。比企郡小川町、玉川村と東へ流れ、
   嵐山町鎌形で都幾川に合流する。合流地点の周辺には
   左岸側に広い河原が形成されている。槻川にはここから
   1.5Km上流では、大平山(写真右上、標高179m)と
   正山(写真左上、標高165m)の裾を嵌入した地形が
   形成されていて
嵐山渓谷と呼ばれる。なお、都幾川の
   右岸堤防には桜並木とサイクリングロードが整備されている。

 大聖牛
↑大聖牛(上流から) 嵐山町大蔵
 二瀬橋から250m下流。都幾川の河原には大きな牛が
 5匹も生息している。牛とは洗掘防止など河床の根固めに
 用いられる透過性の水制のこと。古来から存在する古典的な
 水制工である。牛の形式のうち、大型で本格的なものは
 大聖牛と呼ばれている。これらの大聖牛は直径15cmの
 丸太10本で組まれていて、高さは約2.7m、底幅は4.2m。
 下部には鉄線蛇籠が置かれた本格的な仕様である。
 槻川の合流の影響が大きいのか、二瀬橋の下流では、
 都幾川の流路は2つに別れたままである。
 これらの大聖牛は、左岸側に偏った流心を中央へ
 移動させるために設置されているのだと思われる。

   
学校橋の付近
  ↑学校橋の付近(右岸下流から) 嵐山町大蔵
   二瀬から1Km下流、東松山市上唐子との境界。
   左岸の地形は河岸段丘で、標高が高いので堤防はないが、
   右岸は平地(水田が広がる)なので堤防(注3)が築かれている。
   都幾川には州が多く、瀬と淵が適度に分布している。
   この付近は、ふる里の川モデル事業が計画されている。
   都幾川の周辺には、オオムラサキの森、蝶の里公園、
   野鳥の森などの自然公園や菅谷城跡(畠山重忠の館)、
   班渓寺(木曽義仲の生誕地)、大蔵舘跡(大蔵神社)、
   鎌倉街道(注4)等の史跡が多い。これらと都幾川の
   自然を共存させた親水空間の整備が計画中であり、
   護岸は自然石やかごマットによる方式を基本とするようだ。

(注1)石代堰がいつ頃から存在するのかは不明だが、江戸時代末期には
 既に存在していたようである。文政年間(1830年頃)の調査を基に編纂された、
 新編武蔵風土記稿の比企郡鎌形村(9巻、p.303)には、
 ”〜略〜用水は都幾川を引来て田間に沃げり”とある。

(注2)鎌形八幡神社は平安時代初期に坂上田村麻呂が、九州の
 宇佐八幡宮から分霊したと伝えられ、源義賢、義仲、義高の3代に
 渡り信仰が深かったという。八幡神社は都幾川左岸の段丘上に位置し、
 敷地内には崖線からの湧水(鎌形の七清水の一つ)がある。
 これは木曽義仲の産湯に使われた清水だという伝承があり、
 傍らには江戸時代に建てられた石碑もある。
 スギから成る八幡神社の見事な社叢林は、埼玉県のふるさとの森に指定されている。

(注3)鎌形から大蔵にかけての右岸堤防は、近年に築堤されたものではなく、
 江戸時代から既に存在していた(規模は近代改修によって拡大されている)。
 例えば、明治9年の調査を基に編纂された武蔵国郡村誌の
 比企郡鎌形村(6巻、p.300)には、以下の記述がある。
 ”都幾川堤:本川に沿ひ
 村の中央より東方大蔵村界に至る
 長十町三十七間馬踏一間堤敷三間
 水門1ヶ所修繕費用は官民二途に属す”
 延長が約1160m、天端幅が1.8m、敷幅が5.4mの堤防である。
 同様に大蔵村(6巻、p.308)にも、鎌形村界から上唐子村界に至る堤防の
 記述があり、こちらは馬踏七尺(約2.1m)、堤敷四間(7.2m)と規模が大きくなっている。

(注4)学校橋の付近が鎌倉街道(上の道)の都幾川渡河地点だった。
 鎌倉街道沿いには、都幾川左岸の菅谷城跡に対して、右岸には
 大蔵館跡(源義賢の館)もある。大蔵館跡から南へ向かい将軍沢へ入ると、
 将軍沢窯跡群(丘陵斜面に設けられた古墳時代の窯跡)に辿り着く。
 大蔵、将軍沢には鎌倉街道沿いに、
古い火の見櫓が残っている。
 そして笛吹峠(標高約90m)を越えると、比企郡鳩山町須江に入る。
 笛吹峠は正平七年(1352)に足利尊氏と新田義宗が戦った古戦場である。


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