埼玉県名の発祥地

 さきたま資料館の東側の通路(レストハウスとの間)には、埼玉県名発祥の碑が設置されている。
 昭和62年(1987)建立。碑の題字は当時の埼玉県知事、畑 和
(はた やわら、行田市の隣の加須市出身)
 (注)本ページの画像は、CAMEDIA C-2000Z(211万画素)で撮影しました。

 埼玉県名発祥の碑  ↓の埼玉県名の由来には記されていないが、
  明治4年(1871)の廃藩置県で設けられた埼玉県、入間県の
  県庁所在地は、それぞれ岩槻、川越であった。入間県は
  群馬県(現在の群馬県とは区域が異なる)と合併し、明治6年には
  熊谷県に改められている。これは入間県と群馬県の県令(国が任命)が
  同一人物だったからという、信じられないほど単純な理由による。
  熊谷県は面積が埼玉県の10倍近い広範囲な区域であった。
  熊谷県の県庁は、熊谷寺(ゆうこくじ、熊谷市仲町、熊谷次郎直実に
  由来のある寺)に置かれた。明治9年(1876)8月、埼玉県と熊谷県が
  合併し(この時に群馬県の区域を分離した)、現在の埼玉県の県域が定まった。
  しかし、埼玉県の県庁所在地については明治19年(1886)に
  熊谷への移転問題が起こるなど、正式に浦和に定められたのは、
  じつに明治23年のことである。

  ちなみに、明治2年から明治4年までの間は、埼玉県の行政区域は、
  非常に交錯していて、じつに6つもの県が存在していた。
  忍県(現.行田市)も、そのうちの一つであった。
  わずか2年間だが、行田市はかつて県庁所在地だったのだ。

 埼玉県名の由来
 埼玉県の県庁所在地:
 前述の紛糾状態もあり、浦和町が県庁所在地に
 定められたのは、かなり遅かった(おそらく全国で
 最後だろう)。その後は、さいたま市が誕生するまで、
 浦和市が県庁所在地だった。
 しかし、浦和市は昭和9年(1934)まで町であり、
 当時、全国で唯一の県庁所在地でありながら、
 市制を施行していない町であった。
 時間帯によってはJR高崎線が停車しないこともあり、
 [県庁所在地なのに電車が止まらない町]などと
 揶揄されたこともあった。

[埼玉古墳群]へ戻る  関連(埼玉の万葉歌碑):[前玉神社][小崎沼