小山川 (いろは橋から日影橋まで)  [小山川のページ一覧

 撮影地:埼玉県本庄市(旧児玉郡児玉町)

 いろは橋の付近
(1)いろは橋の付近(上流から) 児玉町太駄(おうだ)
 県道44号線(この付近の区間は県道13号線と共用)の
 道路橋が、いろは橋。秩父道の橋として、新編武蔵風土記
 稿に記載されている歴史の古い橋だ。小山川(身馴川)が
 頻繁に蛇行する様を回数で、いろはと命名したのだろう。
 小山川は、ここから300m上流で秩父郡に入り、皆野町
 金沢字出牛(じうし、じゅうし)に至る。難読地名が続く。
 太駄は元来は黄田と表記していたようだ。野鍛冶が
 盛んな村だった(注1)。前掲書に石川と称されているが、
 現代も小山川の河床は礫が分布し、水はほとんど流れて
 いない。砂防のためのコンクリート護岸が、延々と
 施されている。いろは橋の直上流では、左岸へ
 平沢川が合流している。 
   小塚バス停の付近
  (2)小塚バス停の付近(下流から) 児玉町太駄
   写真(1)から2.9Km下流。県道44号秩父児玉線は、小山川の
   左岸側に並走している。右岸側は岸辺まで山が迫っている
   からだ(写真の奥は不動山:標高549m)。ここまで小山川は
   西南、阿久戸、殿谷戸の集落の間を流れて来るが、景観には
   大きな変化はない。谷底平野なのだが、段丘崖はほとんど見られない。
   ただ川幅はかなり広くなる。小さな渓流や沢(大半が土石流
   危険渓流)が流れ込んでいるからだ。小塚バス停の付近では
   左岸に宇津木沢、右岸に日出沢、向沢が合流する。
   小山川の流路は急激な蛇行を繰り返し、特に岩上神社の
   付近では急激だ(流路が180度転換する)。左岸には
   正覚寺があり、右岸の崖下には八坂神社が祀られている。
   児玉郡に多く分布する金鑚神社だが、小山川の沿線には少ない。

 積善橋の付近
(3)積善橋の付近(下流から) 児玉町河内(こうち)
 写真(2)から2.2Km下流の付近。県道44号線の河内寺山
 バス停の脇。写真の右隅に見えるのは火の見櫓。
 
太駄、元田にも火の見櫓があり、消防団第三分団の
 所轄である。火の見櫓は高さが求められると思うのだが、
 最も低地である川の脇に建つのは意外だ。太駄、稲沢、
 河内、元田は昭和30年まで児玉郡本泉村に属した。
 本泉小学校(注2)の近くには、大正時代に設置された
 
本泉村の道路元標が今も残っている。

   稲聚川の合流

  (4)稲聚川の合流(左岸上流から)
   左岸:児玉町元田(げんだ)、右岸:児玉町河内
   写真(3)から700m下流。写真の左下隅から中央へ流れるのが
   稲聚川(いなとり)、小山川は右端から奥へ流れる。
   合流地点では小山川は大きく蛇行している。稲聚川の
   左岸には[準用河川
 稲聚川終点 埼玉縣]と刻まれた標石が
   建っている。稲聚川は稲沢地区から流れて来る渓流だが、
   現在は一級河川に指定されている。源流は神川町渡瀬〜
   下阿久原の櫓峠(矢倉峠)付近にある。

 日影橋の付近
(5)日影橋の付近(左岸から)
 左岸:児玉町元田、右岸:児玉町河内
 写真(4)から700m下流。日影橋は県道44号線の旧道と
 新道を結ぶ橋。新道は小山川の右岸側に設けられたが、
 中元田の集落は左岸側に立地する。つまり日影橋は元田と
 河内を結ぶ生活道路の橋だ。日影は河内の小字である。
 なお、ここから200m上流で旧道と新道は合流し、
 その付近には新日影橋(県道44号線)が架かる。
 日影橋はかなり老朽化していて、形式も古い橋なので
 身馴川の河川改修が実施された時(昭和初期)に、
 架けられた橋だと思われる。 

   間瀬湖
  (6)間瀬湖(上流右岸から) 児玉町小平
   日影橋から南東へ700m、写真(5)の上部の山の奥にある。
   間瀬川(小山川の支川、一級河川)を、ダムで堰止めて
   作られた人造湖。ここから2Km上流には第二間瀬湖がある。
   写真の間瀬堰堤は児玉用水(農業用水)取水のための
   コンクリート重力式ダムであり、昭和12年(1937)に埼玉県に
   よって建設された。高さが30m近い農業用コンクリートダムでは
   日本最古の部類に属す。当初のかんがい面積は約700haで、
   主に小山川の右岸側(注3)に用水を供給する。
堰堤と管理橋
   国の有形登録文化財である。間瀬湖は[ふるさとさいたま百景]などに
   選定された景勝地であるだけでなく、県内有数のヘラブナ釣りの場でもある。

(注1)太駄には鍛冶職人が多く、農作業に使う鎌や鍬を造る野鍛冶が
 江戸時代から盛んだったようである。武蔵国郡村誌の児玉郡太駄村(8巻、p.179)の
 物産には生糸、生絹、炭、薪、石灰、材木などの山間地に特有な
 産物に加えて、鍬120挺、鎌135挺が記録されている。
 太駄村は山村のわりには、戸数が140戸と多いのが特徴である(隣村の河内村は56戸、
 元田村は30戸)。一方、町場である児玉町の戸数は393戸であり、
 農具の生産量は鍬500挺、鎌1000挺だった。

(注2)武蔵国郡村誌によれば、明治初年の時点で太駄村、稲沢村、
 河内村、元田村には小学校がなかった。太駄村は男43人、女14人、
 稲沢村は男18人、女0人が、それぞれ下阿久原学校へ
 河内村は男5人、女0人、元田村は男7人、女5人がそれぞれ小平学校へ
 通っていたとある。どの村の生徒も山を越えて、隣村への通学である。
 現在の学区に当てはめれば、本泉小学校の生徒のうち
 太駄、稲沢の子供は神泉町の神泉小学校へ通学、
 河内、元田の子供は秋平小学校に通学することに相当する。

(注3)児玉用水の管理運営のために、昭和4年(1929)に
 児玉用水普通水利組合が設立された。間瀬堰堤の傍らに建つ、
 児玉用水竣功之碑(昭和23年建立)によれば、その構成町村は、
 秋平村、児玉町、共和村、東児玉村、松久村、北泉村、榛沢村、本郷村だった。
 内訳は旧児玉町(秋平村、児玉町、共和村)、美里町(東児玉村、松久村)、
 本庄市(北泉村)、旧岡部町(榛沢村、本郷村)である。
 なお、児玉用水という名称だが、旧岡部町は大里郡だ。
 8町村のうち、児玉町、共和村(蛭川などの児玉町の北東部)、北泉村(北堀などの
 本庄市の南東部)の3町村が、小山川の左岸側に位置する。
 これらは九郷用水(流末は女堀川など)のかんがい区域だと思われるが、
 なぜか児玉用水の水利組合に加入している。歴史的に九郷用水の流末は小山川へ
 排水されてきたので、その排水権を維持するためだろうか。3町村は小山川の左岸に
 隣接した低地だが範囲は狭く、すぐ北は台地、丘陵へと変化する。
 丘陵の北側に再び、低地が現れるがその一帯は古い時代(近世以前)から開発され、
 九郷用水(神流川を水源)によって、かんがいされてきた。
 九郷用水の守護神である金鑚神社が多く分布する地域だ。


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