植松橋 (うえまつ)
場所:荒川、左岸:埼玉県大里郡川本町田中、右岸:川本町畠山 県道69号深谷嵐山線
形式:鋼桁橋(8スパン、中央部は3径間連続桁) 長さ
370m、幅 10.5m 建設:昭和46年(1971)11月
←植松橋(右岸上流から) 町の中央部を荒川が貫通する川本町だが、つい最近まで 荒川に架かる橋は、植松橋のみであった。その植松橋も 昭和45年までは、冠水橋(大雨で荒川が増水すると、橋が 沈んでしまって渡れない)であり、不便を強いられてきた。 現在は川本町の荒川には植松橋の上流に、重忠橋 (六堰頭首工の管理橋)が架けられている。 植松橋の右岸上流には、植松冠水橋記念碑(昭和28年4月建立)が 残されている。碑文によると、植松冠水橋の工事は、のべ9000人を動員し 昭和25年(1950)10月7日に起工し、翌年4月28日に竣工している(注)。 日本初の鉄筋コンクリート流線型の冠水橋(全長133m、幅3.6m、 19スパン)だったとあるが、日本初がどこに掛るのかは不明だ。 なお、植松冠水橋が竣工した頃、左岸は大里郡武川村、 右岸は大里郡本畠村であった。植松橋の左岸には、 武川村の道路元標が今も残っている。 |
↑植松橋(上流右岸の河川敷から) 形式はごく普通の鋼製プレートガーダー橋である。 ただ、中央部の1スパンは、3径間連続の鋼桁。 植松橋の右岸側の河川敷には、川本町ペタンク場や 町営グランドが設けられている。 |
↑植松冠水橋の跡(下流から) 以前の植松橋はコンクリート製の冠水橋であった。 植松橋の下流側には、植松冠水橋の橋脚跡が 10基残されている(完全に撤去しないで、放置されている?)。 |
(注)植松冠水橋が架けられるまでは、荒川の渡河は植松の渡しと呼ばれる渡船だった。
地元住民は船に代わる新しい交通手段として、荒川への橋の建設を熱望していた。
植松冠水橋の建設運動は、大正13年(1924)7月に武川村と本畠村の村長が
県知事にあてた陳情・請願書に始まる。しかし昭和6年(1931)に起きた疑獄事件、
昭和12年に起きた架橋位置問題(刑事事件にまで発展し投獄者も出た)、
さらには第二次世界大戦の勃発により、計画は一時中止となった。
結局、植松冠水橋が完成するのは、大正13年の陳情から27年後の昭和26年(1951)となる。
しかし、植松冠水橋は増水時に通行不能となるだけでなく、常時は車輌の対向が不可能だった。
交通量の増加、通行車輌の大型化など、橋をとりまく社会状況の変化は急激であり、
結果として植松冠水橋の寿命は極端に短く、わずかに20年間だった。
建設実現までに30年近く要したのに、耐用年数はそれを上回ることはできなかった。