中落堀川 (なかおとしぼり) (その1) (その2)
撮影地:埼玉県北葛飾郡鷲宮町、久喜市
中落堀川は延長約5Kmの中川水系の準用河川。管理起点は大境橋(鷲宮町久本寺〜久喜市久喜本)の
付近にあり、そこから概ね南東へ向かって流れ、久喜市吉羽と宮代町和戸の境界で、大落古利根川の
右岸へ合流する。上流部と下流部は農業排水路の様相だが、中流部は久喜市の市街地を
流れる都市河川である。大落古利根川の支川にしては珍しく、本川には取水堰が設けられておらず、
現在は完全に排水専用河川である(以前は下流部の久喜市吉羽に取水堰が設置されていた)。
中落堀川の水質は見た目にも良くはないが、川沿いには遊歩道が整備されるなど、
川に親しめるような河川整備がなされている。また沿線に設けられた数箇所の調節池も
機能優先の殺伐としたものではなく、自然観察公園を兼ねていて、景観と自然環境への
配慮が見られる。これらの調節池は元来は湖沼だったようなので、開発行為に伴う
流出抑制池ではなく、あくまでも中落堀川の洪水調節池だと思われる。
中落堀川の起源は江戸時代に整備された騎西領の悪水路(排水路)である。
明和七年(1770)の騎西領の古来記(埼玉県史 資料編13、p.426)には、久本寺村から
大落堀(古利根川)までが管理区域であり、長さ2520間(4536m)、平均幅二間(3.6m)の悪水堀とある。
堀の維持管理のために、中妻村、久本寺村、上内村、古久喜村、野久喜村、久喜本町、
久喜新町の7ヶ村によって組合が組織されていた。
(1)中落堀川の源流(上流から) 鷲宮町中妻 写真の奥に見えるのは、わし宮団地と日枝神社。 新川用水(騎西領用水、見沼代用水の支線)の悪水を 集める農業排水路が中落堀川の源流。写真の水路は 幅1.3mの柵渠。このような小さな排水路が数本、 県道12号川越栗橋線の付近から始まっている(注1)。 なお、ここから北東1.2Kmには青毛堀川が流れている。 青毛堀川も中落堀川と同じく、新川用水の悪水を 集めて流れ、最後は大落古利根川に合流する。 というより、青毛堀川の終点が大落古利根川の起点だ。 |
(2)久喜北陽高校の付近(上流から) 鷲宮町久本寺(きゅうほんじ) (1)から900m下流。久本寺地区に入ると、(1)の水路は一本の 流れとなる。幅1.4mの素掘りの水路、適度な蛇行が心地よい。 水路の周辺は休耕田(湿地帯)で、都市再開発の予定地だという。 いずれ、この風景も消え去ってしまうのだろう。鷲宮町と 久喜市の境界に建つのが、県立久喜北陽高校(写真奥)。 某女性お笑いコンビの母校だ(母校名がそのままだが)。 北陽高校の北側の道路は路線配置と形態から、その起源は 堤防だと思われる(注2)。中落堀川流域の悪水が久本寺村から 久喜本村へと流入してくるのを、防ぐための村囲堤であろう。 |
(3)管理起点の付近(右岸上流から) 久喜市久喜本 (2)から400m下流。写真は大境橋から撮影。 大境橋(久喜北陽高校の北側)の付近が、準用河川 中落堀川の管理起点である。川幅は6.5mに広がり、 左岸には調節池が設けられている。写真中央の隔壁は 調節池への横越流堰(排水設備はない自然調節)。 上には香取堰橋(長さ約30m)が架けられている。 |
(4)香取公園(かんどり、南側から) 久喜市久喜本 (3)の香取堰橋から撮影。中落堀川左岸の調節池は 香取公園(面積21,000m2)として整備されている。 ただし、外周に柵が設けられているので、中に入ることは 出来ない。水辺にはヨシが茂り、落葉樹も多いので、 カモやサギなどの野鳥が数多く棲息しているそうだ。 市街地で気軽に野鳥観察ができる。 |
(5)県道3号線を横断(下流から) 久喜市野久喜 (4)から300m下流。川幅は9.5mに広がる。中落堀川は 中落堀橋(ボックスカルバート橋、1988年竣工)で 県道3号さいたま栗橋線を横断する。水量が少ないうえに 市街地を流れる河川なので、生活排水が流入している。 そのため、見た目にも水質は良くない。 奥に見えるのが香取公園。 |
(6)古久喜公園の付近(上流左岸から) 久喜市北二丁目 (5)から300m下流。中落橋の下流左岸にあるのが古久喜公園。 この公園も香取公園と同様、洪水調節池(面積は7,000m2程度)。 横越流堰の上に架けられた大浦堰橋は、一種の橋上公園となっている。 大浦とはかつて、この付近に存在した大浦沼のことだろう。 左岸には椎名落(鷲宮町上内から流れて来る)が合流している。 中落堀川の左岸にはタイル貼りの遊歩道が整備されている。 |
(注1)中落堀川の源流となっているのは中妻落などの農業排水路である。
落(おとし)とは農業排水路の古い呼び方。
かつて県道12号川越栗橋線の北側には中妻、葛梅、上内地区にかけて
七曲堤と呼ばれる村囲堤があった。これは延長約700m、高さ約1.8mの
小規模な堤防(鷲宮町史 通史 中巻、p.341)だが、加須市水深方面からの
洪水が村へ流入してくるのを防ぐ重要な施設だった。江戸時代には、
この堤防の高さや修復を巡って、上流側と下流側で頻繁に争いが生じている。
(注2)この堤防(村道を兼ねた)に関しても、上流の騎西領(中妻村、
久本寺村、上内村)との間で紛争が生じている。
埼玉県史 資料編13、p.414によれば、上内村は悪水を
古用水堀(現在の椎名落だろうか)を浚渫して整備し直し、
中落堀へ落としていたのだが、下流の野久喜村や古久喜村が
村境に上置き(堤防の嵩上げ)をしたために、悪水の流下が阻害され、
迷惑を蒙っているというものだった。