館川 (その2) (その1)
(1)取水堰?(下流から) 小川町腰越 ここから400m上流では、左岸へ赤谷沢が合流している。 その下流で館沢が合流した直後、館川は大きく蛇行する。 そこにあるのがこの構造物。本来は砂防堰堤だと 思われるが、上流側には土砂がかなり堆積していて もう砂防機能はない。現在は左岸から農業用水が 取水されている。右岸山が迫っているが、左岸には 民家が点在し、周辺には小規模だが水田がある。 |
(2)矢平橋の付近(左岸下流から) (1)から300m下流。館川に架かる橋はこの形式(鋼桁に 練り石積みの橋台)が多い。矢平橋の左岸橋詰には、昭和4年 (1929)建立の矢平橋架設寄付者の碑と安政二年(1855)建立の 道標がある。道標には右 笠山 左 慈光山道と記されている。 なお、この付近には旧大河小学校 腰越分校の小さな木造校舎がある。 明治35年4月に開校した腰越分校は平成15年3月に休校となり、 現在は小川町文化財整理室となっている。 |
(3)道路を跨ぐ鳥居(下流から) (2)から100m下流。工場の脇には道路を跨ぐ巨大な鳥居が 建っている。しかし、この付近には神社はなく、小さな祠と 馬頭観音(享保年間に建立され大正時代に流出し再建)が あるだけだ。なお、能満寺の付近では小貝戸沢が 館川の左岸へ合流しているが、そこには昭和14年(1939) 竣工の古い橋が架かっている。 |
(4)落合橋の付近(上流から) (3)から200m下流、館川の第一橋(最下流に架かる橋)が 落合橋。昔は合流地点のことを落合ともいった。 元々は木の橋だったが、老朽化が激しいため、住民の 寄付金を基に現在の鉄筋コンクリート橋へと架け替えられた。 右岸橋詰には昭和32年(1957)建立の架橋記念碑が建つ。 館川の周辺には架橋記念碑だけでなく、林道開設記念碑も多い。 |
(5)館川の終点(左岸下流から) 小川町腰越 (4)から100m下流。館川は槻川の右岸へ 合流して終わる。写真の手前が槻川、右隅が館川。 槻川への合流部の護岸は、短い区間だが、 コンクリートではなく、練り石積みである。 旧来の護岸が、わずかだが残っているのだろう。 館川との合流地点では、ここまで南へ向かって 流れて来た槻川は、ここから下流は北東へと急激に 流路を変えている。南へ向かう槻川と 北へ向かう館川が衝突した結果、槻川の流れが 北東へ変わったような形態となっている。 槻川の河原にはレキが多く分布し、そのほとんどが 緑色をしている。 |