槻川 (帯沢川の合流から切通橋) [槻川のページ一覧]
撮影地:埼玉県秩父郡東秩父村、比企郡小川町
(1)帯沢川の合流(上流から) 東秩父村安戸 身形神社の東側では、帯沢川(準用河川)が槻川の 右岸へ合流している(写真の右隅)。合流地点には 昭和2年(1927)建立の帯沢橋架橋記念碑がある。 碑文には建設費用の不足分を村民の寄付金で 補ったとあり、寄付金者130名の名が記されている。 なお、右岸に位置する身形神社は江戸時代は 妙見社と称していた。妙見(北斗)信仰と 関係ある神社だ。妙見社の一宮は秩父神社。 |
(2)大河原橋の付近(上流から) 東秩父村安戸 写真(1)から700m下流。蛇行が終了した直後なので、河床には 大量の礫が堆積し、大きな河原が形成されている。 大河原橋(県道11号線)という名称は、昭和30年まで、 この付近の村名だった秩父郡大河原村に由来するのだろう。 橋の東側に隣接するのが、比企郡大河村(現在の小川町 腰越の一帯)だったので、ちょっと紛らわしい。 大河原橋の左岸橋詰にはスポット公園があり、トイレや 休憩所が整備されている。 [和紙の里 東秩父村]の案内板と説明板も掲示されている。 |
(3)入山川の合流(右岸から) 東秩父村安戸 写真(2)から300m下流。左岸へ入山川(準用河川)が 合流している。延長約2Kmの小河川で、小川町との 境界に位置する金勝山と宮ノ倉山に源流がある。 両山は兜川との分水界になっている。入山川に沿った 道路は大正期に整備された新道であり、その竣工記念碑 入山道の碑(昭和29年建立)が合流付近にある。 写真の流れ橋は、入山道と秩父道(県道11号線)を 結んでいるが、主な用途は右岸側の河川敷に 存在する農地への通路である。 |
(4)安戸橋の付近(上流から) 東秩父村安戸 写真(3)から500m下流。安戸橋の左岸側の地区は槻川に 沿って町屋が形成され、かつては秩父往還の宿場として栄えた。 今でも宿場の面影が残っていて、安戸宿と呼ばれている。 宿への入口だったのが安戸橋(注)。左岸橋詰には弁財天や 庚申塔などの石仏群が祀られている。安戸橋の上流では 槻川の流路は右岸寄りであり、左岸には河原が形成されている。 河原は消防道路を兼ねているようで、槻川の河道には 土嚢が詰まれ、一種の取水ピットとなっている。 安戸橋の左岸上流には官の入沢(土石流危険渓流)が合流している。 |
(5)流れ橋(下流から) 小川町腰越 写真(4)から400m下流。安戸橋から切通橋までの800mの 区間には2箇所に木製の流れ橋が架けられている。 河床に転がる自然石を橋脚の替りとした素朴な橋である。 槻川には水衝部である左岸側にはコンクリート護岸が 施されているが、右岸側は自然のままである。左岸側は 標高が高いので、護岸には橋へ降りるための階段が 設けられている。 |
(6)切通橋の付近(下流から) 小川町腰越 写真(5)から500m下流。切通橋(県道11号線)はその名の とおり、山を切り開いた新道に架けられた橋である。 明治39年(1906)に民間有志によって、上河原から赤木までの 1600間(約2.9Km)の道路が新設された。 切通橋の左岸橋詰には開峡道記と題された大正5年(1916) 建立の竣工記念碑が建てられている。 碑の背面には寄付金者が260余名も記されている。 |
(注)安戸橋の前身と思われる橋が、明治9年の調査を基に
編纂された武蔵国郡村誌に記されている。秩父郡安戸村(7巻、p.33)に
”知々夫橋:秩父道に属す 村の東方 槻川の下流に架す 長十四間五尺巾六尺木製”とある。
知々夫は[ちちぶ]と読むのだろうか。木製だが長さが26.7m、幅1.8mなので大きな橋である。
木橋の頃の遺構なのだろうか、安戸橋の橋台付近の護岸は今も練り石積みである。
なお、安戸村は紙すきが盛んだったことが、前掲書から窺い知れる。
物産の項には”蚕卵紙六千枚 細川紙六百六十束 美濃紙四百六十束 障子紙五百束
大和塵紙四百二十束”、民業には”男は農桑を専とし女は農桑紙漉を専とす”とある。
周辺の山では楮などの原材料が栽培され、山は槻川の豊かで美しい流れを育んだ。
まさに紙すきの好条件が揃っていたわけだ。