洗玉橋 (せんぎょくばし) - 上陽町指定文化財 -

 場所:福岡県八女郡(やめ)上陽町(じょうよう)大字北川内字洗玉  八女市から車で20分
 架橋:明治26年(1893) 5月3日  石工:橋本勘五郎、萩本宇作
 径間(スパン):22.5m 長さ:32.5m 幅:5.0m 拱矢:10.0m(こうし、アーチ内側の頂からアーチ基礎までの高さ)

 福岡県最大の石橋(単一アーチ)。大きな石橋としては、橋本勘五郎、最後の作です。
 上流側の要石(かなめいし:アーチ中央部の石)には、

  〜 肥後上益城矢部吹上兄弟橋、八代種山棟梁 橋本勘五郎、倅 源平、孫 為八 〜

 と刻まれています。
 洗玉橋は、通潤橋(熊本県矢部町)の弟なのです。勘五郎さんの石橋への想いが伝わってきますね。
 技法として、通潤橋と同じ鞘石垣や袖石垣が使われ、両岸部分は裾広がりになっています。
 また、壁石は種山石工伝統の自然石の乱れ積みです。

 洗玉橋  ←洗玉橋(下流側から撮影)
  下を流れるのは星野川。
  谷が深く、急流です。
  そのため、洗玉橋は長さの割には
  スパンが大きくなっています。
  力強く美しい華麗なアーチです。

  勘五郎さんは明治10年頃には、
  明治政府に招かれて、東京の市中に
  数多くの石橋を架けています。
  当時の石橋は今ではひとつも残っていませんが、
  きっとそれらは、洗玉橋に似た気品と風格のある
  橋だったと思われます。→
神田川の橋

 アーチ石組み

 ↑アーチ石組みの緻密さ、全体の雰囲気は、通潤橋よりも,
  
下鶴橋(熊本県御船町)に似ていますね(右岸から)

    鞘石垣と袖石垣  
   ↑鞘石垣と袖石垣。
    壁石のてっぺんまで鞘で覆われています。
    これらの技法を自在に使いこなせたのは、
    勘五郎さんのみ。
 洗玉橋の親柱  ←親柱には、明治二十六年五月三日竣工 と刻まれています。
  また奥の石碑には 上陽町文化財指定第一号と書かれています。
  当初は木橋を架設する予定でしたが、村民の熱い要望で、
  石橋に変更されたそうです。
  予算が足りない分は、村民222名の寄付で賄われたと記録されています。

  欄干は、雲飾り風(日本家屋の欄間等に見られる)の柱が連続したもの。
  素朴なデザインと造りが、洗玉橋の印象をより引き締めています。

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