庄兵衛堰枠の説明板

 庄兵衛堰枠の説明板
(注1)庄兵衛堰枠のある白岡町野牛は、新井白石(1657-1725:江戸中期の
  朱子学者・政治家)の領地であった。新井白石が開削した白石堀(排水路)には、
  明治42年(1909)に内舞台堰(煉瓦造り、ゲート2門、現存せず)が建設されている。
  なお、野牛の内舞台地区には新井白石の顕彰碑が建てられていて、
  そこには江戸時代に建立された
石橋供養塔も残っている。

(注2)イギリス積みの画像はこちら

(注3)用水が引き込まれた高岩方面とは、庄兵衛堀川の左岸側のこと。
  JR東北線を挟んで野牛の東側の地域である。庄兵衛堰枠が廃止されたので、
  現在では野牛と高岩地区は
笠原沼用水(見沼代用水の支線)から取水している。

(注4)堰に落しこむ板とは、角落しや堰板と呼ばれる木製のゲートのこと。
  当時の中規模以上の取水堰で採用実績が多い。堰には堰番と呼ばれる、
  専門の管理者がいて、はめ込む板の枚数で水位の調節をした。→
堰板の画像

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