庄兵衛堰枠 (しょうべい せきわく)

 所在地:南埼玉郡白岡町野牛(やぎゅう)、庄兵衛堀川  建設:1907年

幅(内法) 長さ 袖壁長 側壁厚 堰柱厚 ゲート 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
*は推定値
4.1 5.9 1.0 0.45 0.8 幅1.8、2門

 庄兵衛堰枠の建設工事:
 庄兵衛堰枠は農業用水の取水のために庄兵衛堀川に設けられていた堰。
 現在残る煉瓦堰は、老朽化の激しい既存の木造堰(明治30年に改築)を煉瓦造りへと
 改良したもので、庄兵衛堰枠普通水利組合(管理者は篠津村長 小島覚之助)が
 県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て建設した。
 工事は随意契約請負でおこなわれ、明治39年(1906)11月31日に起工し、翌年3月30日に竣工している。
 工事担当者(請負人だろう)は小島成三郎と記録されているが、村長の同族なのだろうか。
 当初の予定では明治39年10月20日起工、同年12月31日竣工であったが、
 天候が不順で工事開始が遅れたこと、建設地点の地盤が予想以上に固く、基礎の杭打ちに
 難儀したことなどから、工事完了は大幅に遅れている(埼玉県行政文書 明2516-19)

 庄兵衛堰枠の使用煉瓦数は、9,900個(選一等焼過4,600個、焼過一等5,300個)と少ない。
 堰本体(堰柱と側壁)はイギリス積みで組まれている。
 基礎の工法は当時一般的だった土台木である。これは地盤へ基礎杭として松丸太を
 打ち込んでから、杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、
 その上に捨コンクリートを打設した方式である。
 埼玉県立文書館には設計原図、杭頭切取図、設計仕様書などの関連文書が
 保存されている。この頃になると設計図は洗練され、断面図の表記や記号の使い方は
 現代の設計図と大差ない。また、杭の支持力や安全率を算出するのには、
 トラウトワインの公式を使っているので、ある程度の設計理論も導入されている。

 庄兵衛堰枠の置かれた状況:
 庄兵衛堀川は上流部の菖蒲町や久喜市の水田からの悪水(排水)を集めて流れていて、
 現在は典型的な落し(排水路)だが、かつては農業用水路としても使われていた。
 慢性的な水不足を解消するために、庄兵衛堀川の最下流部に設けられた取水堰が
 庄兵衛堰枠である。野牛、篠津、高岩、寺塚地区のちょうど境界付近に庄兵衛堰枠は設けられた。
 庄兵衛堰枠の工事竣功検査証には、工事箇所は野牛ではなく、篠津村大字高岩と記されている。
 もっとも庄兵衛堰枠は野牛に設けられてはいたが、灌漑先は主に隣の高岩地区であった。
 高岩地区は黒沼笠原沼用水(見沼代用水の支線)のかんがい区域に属するのだが、それでも
 庄兵衛堰枠が設けられていたのは、用水が不充分で末端までは行き届かなかったためであろう(注1)
 なお、南埼玉郡篠津村は篠津村、野牛村、寺塚村、高岩村、白岡村が合併して、明治22年に誕生した。
 大正13年に建立された篠津村の道路元標が、庄兵衛堰枠から西へ300mの地点に今も残っている。

 その後、大正8年(1919)から昭和9年(1934)にかけて実施された大落古利根川の改修工事(注2)
 によって庄兵衛堀川の流路が変更されたため、庄兵衛堰枠は1930年に廃止となった。
 わずか23年間の寿命だったが、これはおそらく埼玉県に建設された煉瓦水門でも最も短い。
 しかし、庄兵衛堰枠は完全には撤去されずに、赤池小橋近くの旧流路に放置されている。
 堰上部の約1mが地上に突出している。なお、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
 埼玉郡篠津村(12巻、p.189)によれば、当時の庄兵衛堀川の川幅は三間(約5.4m)であり、
 庄兵衛堰枠の近傍の赤池橋と東谷橋も長さが三間なので、庄兵衛堰枠の地点では川幅が
 狭められていたことがわかる。水を堰上げして取水が容易となるように河道を狭めたのだろう。

 庄兵衛堰枠の起源:
 庄兵衛堰枠について、明和七年(1770)記述の騎西領の古来記(埼玉県史 資料編13、p.416)
 記されている。それによると、庄兵衛堰枠は元来は篠津村へ引水する堰であり、
 現在地よりも100間(180m)上流にあったが、享保13年(1728)に井沢弥惣兵衛
 河原井沼(菖蒲町〜久喜市)を干拓し、新田を開発した時から高岩村の用水堰と
 なったのだという。それまで高岩村の用水は爪田谷堀に土堰を設けて取水していたのだが、
 河原井沼の干拓に伴い、爪田谷堀は沼の悪水落へと変更され、土堰は撤去されてしまった。
 その代わりとして新たに、黒沼用水(見沼代用水の支線)から取水したのだが、
 満足な取水ができなかったようである。そこで享保17年(1732)に現在の位置に
 新しく堰枠が設けられた。これが高岩村の庄兵衛堰枠である。
 施設の規模は内法が横二間高五尺なので、現在残る煉瓦堰と大差ない。
 河原井沼の干拓に伴う取水堰の設置例は、古笊田堰(久喜市、備前堀川)でも見られる。


(注1)野牛村には備前堀川や青柳用水・爪田谷堀(笠原用水の支線)などが
 流れているのだが、どれも農業用水の取水には使われていなかったようで、
 武蔵国郡村誌の野牛村には”当該用水は当村に於いて灌漑の用をなさず”などと
 記されている。なお、かつて野牛地区にはもう一基、煉瓦造りの堰が存在した。
 明治42年(1909)に白石堀(悪水路)に設けられた内舞台堰である。
 内舞台堰は庄兵衛堰枠と同じくゲートは2門だったが、側壁が長かったので、
 使用煉瓦数は庄兵衛堰枠のおよそ2倍であった(埼玉県立文書館に設計図現存)。

(注2)大落古利根川の改修工事は埼玉県の事業だったが、農商務省から
 用排水改修事業費補助を受けている。大落古利根川は利根川の旧流路であり、
 実質的には
葛西用水(農業用水路)の幹線である。
 
見沼代用水から新川用水や笠原沼用水へ分水され、かんがいに使われた後の
 悪水(農業排水)は、最終的には大落古利根川へ集められ、用水として反復利用されている。
 大落古利根川の改修事業によって庄兵衛堀川の流路は、現在の形態(
隼人堀川に合流)へと
 改修された。隼人堀川は概ね悪水路であり、最終的に大落古利根川に落ちる。
 なお、大落古利根川の改修と同時期には、下流の東京府では内務省直轄事業として
 
中川の河川改修が進行していた。中川は大落古利根川の最終的な排水先なので、
 上流の埼玉県と下流の東京府とで利害の調整は紛糾したようである。

 庄兵衛堰枠
↑庄兵衛堰枠(下流から)
 別名を庄兵衛堀の赤池堰枠ともいう。
 白岡町教育委員会による
説明板には、[上敷面製の
 刻印があるので煉瓦は深谷市の
日本煉瓦製造
 造られたもの..]と書かれているが、
 刻印煉瓦は見つからなかった。
 p.s.後日、
刻印煉瓦を発見!
   左岸下流の袖壁天端(写真右端)にある。
   庄兵衛堰枠(上流から)
  ↑庄兵衛堰枠(上流から)
   白岡町教育委員会の説明板には、
   [基礎杭は60本打ち込まれている]とも書いてある。
   おそらく、基礎(コンクリート?)の下に、
   丸太の杭を1m程度の間隔で打ってあるのだろう。
   (p.s.杭は堰の平面形状に合わせてHの形に打ち込まれている)
   この地点から北東2.5Kmの備前前堀川には、同じく煉瓦造りの堰、
   
万年堰(宮代町、1902年)の遺構が残る。 

 側壁(右岸から)
↑側壁(右岸から)
 並べられた石材(2.4m×0.3m、厚さ0.25mを8枚)は
 通路兼ゲートの操作台。堰柱は上下流に水切りを持ち、
 天端には笠石が貼られている。
 上流側の堰柱には、角落し用の戸当りが見える。
 (溝には鉄製の枠が埋め込まれている)
 石材の
下流側の側面は銘板を兼ね、
 [庄兵衛堰枠 明治四十年三月竣功]と刻まれている。  

    側壁天端の装飾と根積み
   ↑側壁天端の装飾と根積み
    天端から4段の煉瓦は、2cm、3cm、4cmと外側に
    ずらして積まれている。笠石をイメージしたものか?
    下端の段は構造的に意味のある形状で、
    土圧に対する抵抗を大きくするための根積みだと思われる。
    通常は土に覆われてしまうため、見えないが、
    
永府門樋(比企郡吉見町、市野川用水)でも確認できる。
    東武東上線、
旧入間川橋梁の橋台は根積みの良い例である。

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