ゲートの分類

 煉瓦水門には様々な形式のゲートが設けられているが、稼動方式で大別すると自動ゲート
 人力操作のゲートとなる。樋門の場合、一般的に排水施設の通水断面は取水施設に比べると大きく、
 川表と川裏の水位差も大きいので、ゲートにかかる水圧は大きくなる。このため、水圧と抗いながら、
 ゲートを人力で操作するのは非常に困難となる。人力で操作するスルースゲートは、
小規模な施設では
 引上げ方式が採用されることが多かったが、水圧が大きく操作が困難だと予測された場合には、
 巻き上げ方式(スピンドルとハンドルを装備)が採用された。
 皿田樋管(元荒川、蓮田市、1903年)は通水断面が75cmの小規模な排水樋管だが、建設当初のゲートは
 巻き上げ方式であった(現在はゲートは撤去されている)。皿田樋管の設計書にはゲートの形式
 選定するさいに川表と川裏の水頭差を考慮した記述が見られる
(→埼玉県行政文書 明2499-20)

(1)自動ゲート
 上記の理由から、中〜大規模な排水樋門のゲート形式は自動ゲートが多い。
 しかし当時の自動ゲートは現代の物とは根本的に思想が異なる。ゲートで自動的に水位を
 制御しようではなく、ゲートの人力操作は不可能なので、自然の流況に任せよう(依存)という発想になる。
 自動ゲートの設置には門柱は不要である。明治期に採用された自動ゲートは、2枚の門扉を
 装備した形態から観音戸や合掌戸と呼ばれ、材質は木製が多かった。
 内務省による利根川第一期改修工事の特殊工事として、明治40年(1907)に建設された、
 阿玉川水門(逆流防止水門、千葉県香取郡)には、木製の合掌扉が設置されたとの記録が
 残っている
(→文献19、p.619)
 自動ゲートの歴史は古く、宝暦9年(1759)に島川(現.中川)に建設された島川門樋
 (現在の
古門樋橋付近にあった)には、既に木製の自動ゲートが装備されていた。
 新編武蔵風土記稿(雄山閣、1957)の埼玉郡北大桑村(第10巻、p.310)に、島川門樋の解説と
 概略図が載っている。”〜中略〜水の力によりて自らとざせる故、水逆流することを得ず、
 門扉の開閉は水勢に任せて人力を待ざること、其製尤巧なりと云べし”と記されている。
 概略図によれば、ゲートは5門で形式はスウィングゲートである。
 自動ゲートは明治期には、自動門樋(扉)と呼ばれることもあった。
 北埼玉郡川里町の屈巣沼
(くすぬま)湖畔には、自動門樋の設計者を称えた石碑が残っている
 
(→屈巣沼東堰、明治45年竣工)。ただし、この自動門樋がどんな形式だったかは記されていない。

(2)人力操作のゲート
 一方、取水施設には
自動ゲートが付けられることは、まずない。必ず人力操作のゲートが設置される。
 これは確実に動作すること、管理者の意思でゲートを開閉させること、時には微妙な水量調節のために
 ゲートを中間開度に設定する必要があるからである。ただし、ゲートが巻き上げ方式ではなく、
 引上げ方式だと、中間開度に設定することは、ほとんど不可能である。
 ゲートの開度を中間に設定した場合(例えばゲートの下端が水路底から数10cmの高さ)、ゲート付近での
 水の流れはもぐり流出となり、水はゲートの下端から放流され、流速も速くなる。
 これによって、樋門付近の水路に堆積した土砂を掃流することができる。
 ゲートを
中間開度に設定することは、土砂吐を持たない樋門では、維持管理上からも
 重要な操作である。樋管の底に土砂が堆積してしまうと、通水断面が狭くなるので、
 樋門の通水能力は著しく低下してしまう。

(3)ゲートの門数が多い理由
 取水施設のゲート形式はスルースゲートが多く、
小規模な施設は引上げ方式、規模な施設では
 巻き上げ方式が一般的である。ただし、通水断面の大きい施設の場合、ゲートを一枚しか付けないと、
 水圧に対して力学的にもたない(木製の場合)だけでなく、人力でゲートを操作するのも困難となる。
 対策として、小さなゲートを複数枚取り付けられるように、ゲートの取付部だけ多連アーチなどにして
 断面を小さく分割した。一見すると複雑な形態だが、実は使う人のことを考慮した巧妙なデザインといえる。
 これが埼玉県の煉瓦樋管で好んで採用された、呑み口と吐き口でアーチの数が異なる形式である。
 (例.見沼代用水元圦、葛西用水元圦、北河原用水元圦、弐郷半領猿又閘門、三軒家樋管など)

 現代はゲートの維持管理を軽減させるために、可能な限りゲートは大きくして、門数を減らす考え方が
 主流であるが、明治期は操作性を向上させるために、門数を増やす考え方が主流であった。
 例として葛西用水元圦の場合、明治27年の時点では断面は2口だったが、大きな水圧のために
 ゲートの開閉が困難だったので、明治39年には4口に改造、それでもまだゲートが重いので、
 結局、明治44年にはゲートを鉄製から木製に交換している(→文献18、p.533)

 取水堰や閘門(制水門)は水位の調節を主目的としているので、人力操作のゲートが設けられる。
 ゲートが1門の小規模な施設では、門柱を設けてスルースゲート(引上げ方式)とすることもあったが、
 埼玉県では複数のゲートを持つ施設で門柱を設けた事例はないようである。
また、当時の取水堰は
 構造形式がほぼ定型化されていて、堰柱の上部にはゲートの巻き上げ機を設置するスペースはなかった。
 この致命的な欠点が煉瓦堰の寿命を早めたともいえる。一方、ゲート巻き上げ機を設置できるように
 本体を改造して、生き長らえてきた古笊田堰(備前堀川、久喜市、1909年)の例もある。

(4)角落とし
 一般的に、取水堰や閘門は通水断面が大きいので、ゲートの形式は角落しと呼ばれる木の板が
 採用されることが多かった。自動ゲートと同じく、角落しも門柱が不要である。
 角落しは常設されるゲートではなく、必要な時に必要な枚数を抜き差しする。
 角落しによる水位の操作は、落とし込む板の枚数を増減することで行い、板を増やす(水位を高くする)、
 板を引き抜く(水位を低くする)となる。ただし角落しはその方式からも明らかなように、
 板と板の間に隙間が生じてしまうので、遮水性は高くない。
 角落しは完全に止水しないで、ゲート上端から越流(放流)することも可能である。
 これは現代のゲート形式では、2段ゲート(二葉式のローラーゲートなど)に相当する機能となる。

区分 形式 ゲートの例 該当する樋管
自動
ゲート
マイター 大小合併門樋 大型の排水樋門(門樋)には、観音戸(観音開きのゲート)が取り付けられた。
このゲートは川の水位と流水の勢いに反応して、自動的に開閉する構造である。

五ヶ門樋(庄和町、中川 、1892) 、アーチ 、歯状装飾 、非・赤煉瓦
大小合併門樋(志木市、新河岸川 、1898) 、アーチ、隅石、歯状装飾、変則積み
永府門樋(吉見町、市野川用水、1901) 2連の箱、鋸状装飾
関根門樋(行田市、見沼代用水、1902)、アーチ、塔のみ残存
杣殿樋管(行田市〜熊谷市、忍川、1903)、箱
源兵衛門樋(行田市、見沼代用水、1903)、アーチ、塔のみ残存
落合門樋(騎西町、見沼代用水、1903)、アーチ、埋没、刻印煉瓦
水越門樋(富士見市、新河岸川、1904)、アーチ 、隅石、刻印煉瓦
千貫樋(さいたま市、荒川(旧堤)、1904)、2連アーチ、隅石
辯天門樋(行田市、旧忍川、1905)、アーチ、翼壁が曲面、刻印煉瓦
小剣樋管(東松山市、都幾川、1914)、箱、変則積み
スウィング 矢来門樋 ゲートは一枚であり、ヒンジ(ゲート取り付け部の蝶つがい)を
軸にして自動的に開閉する。構造的には片側しかない、
マイーターゲートであり、大規模なものだと動作不可となる。
左の写真は、樋門の吐口を天端から写したもの。
通常、水は写真の下から上方向に流れるが、洪水時に増水すると、
ゲートは水圧で自動的に閉まり、洪水の進入を防ぐことができる。

矢来門樋(東松山市、都幾川、1903)、箱、変則積み、刻印煉瓦
フラップ

前吐樋管

水路幅がごく小さい樋門にのみ使われる。
スウィングゲートを、上下方向に取り付けた形式であり、
スウィングゲートよりもさらに小さいゲートが使われる。

前吐樋管(東松山市、都幾川、1903)、円、刻印煉瓦
人力
操作
角落し 宮地堰
角落板の着脱には人員2名を要する。
操作は全て人力に頼り、鉤(かぎ)などと
呼ばれる金属製の棒を板の環に
引っ掛けて板を抜き差しした(枠抜き)。
その様子は
弐郷半領猿又閘門
設けられたブロンズ像で窺い知れる。
常設されるゲートではない。はめ板や角落板と呼ばれる木製の
堰板を必要に応じて、戸溝に複数枚差し込んで使う。
差し込む板の枚数によって、完全止水と堰板の上部からの
越流という2通りの水量調節が可能である。
堰板の両側に取り付けられた金属の環は
板の着脱用(板の浮上防止効果もある)。

倉松落大口逆除(春日部市、旧倉松落 、1891)、4連アーチ、竪積み、鋸状装飾 、非・赤煉瓦
甚左衛門堰枠(草加市、伝右川 、1894)、2連アーチ 、塔、隅石、鋸状装飾、非・赤煉瓦
大島新田関枠(杉戸町、安戸落、1897)、4門
万年堰(宮代町、備前前堀川、1902)、3門、一部残存、石碑
三間樋(騎西町、新川用水(見沼代)、1902)、アーチ、埋没、塔、呑口3→吐口1
秋葉前堰(熊谷市、1903)、1門、側壁が曲面、笠石
榎戸堰(吹上町、元荒川、1903)、3門、隅石、一部残存
京塚樋管(川島町、長楽用水、1903)、箱、塔
庄兵衛堰枠(白岡町、庄兵衛堀川、1907)、2門、埋没、刻印煉瓦
古笊田堰(久喜市、備前堀川、1909)、5門
弐郷半領猿又閘門(東京都葛飾区、大場川、1909)、アーチ、呑口4→吐口6
三軒家樋管(川越市、新河岸川放水路、1910)、アーチ、隅石 、呑口1→吐口2
二郷半領用水逃樋(三郷市、第二大場川、1912)、アーチ
二郷半領不動堀樋(三郷市、第二大場川、1914)、アーチ
スルース
(引上げ)
山形樋管 比較的小規模な樋門に使われた古典的なゲート。
(取っ手が付いているのが特徴)
ゲートの操作は完全に引上げるか、押しこむかのみで、
中間の開度を設定するのが困難であるのが欠点。

米ノ谷樋管?(杉戸町、中川、1897)、箱、変則積み
松原堰(行田市、1901)、1門、埋没、側壁が曲面
堂前堰(行田市、1901)、1門、埋没、側壁が曲面
皿田樋管(蓮田市、元荒川、1903)、円、堤防に対して斜めに設置
山形樋管(富士見市、新河岸川(旧堤)、1904)、箱
笠原樋(鴻巣市、元荒川、1905)、箱
古笊田堰の取水口(久喜市、備前堀川、1909)
スルース
(巻き上げ)
新圦
スピンドルとハンドルを装備。
近代になってから量産された形式。
実用化されていたかは不明だが、
原形は近世に既にあったようである。
ハンドルを回転させることによって、
ゲートを開閉(上下へ移動)できる。
中間開度の設定も可能。
四箇村水閘(春日部市、中川、1896)、アーチ、鋸状装飾、隅石
吉根樋管(坂戸市、高麗川、1898)、箱
鎌田樋管(東松山市、九十九川、1899)、円、土被り大
北美圦樋(志木市、新河岸川(旧堤)、1899)、箱、隅石、変則積み
新田圦樋(志木市、新河岸川(旧堤)、1900)、箱、変則積み
榎戸堰組合用水樋管(吹上町、元荒川、1901)、アーチ、塔
久保樋(行田市、1901)、箱、銘板とゲート巻き上げ台残存、石碑
永傳樋管(東松山市、都幾川、1901)、箱
山王樋管(川島町、長楽用水、1901)、アーチ
笹原門樋(川越市、八幡川?、1901)、アーチ 、塔、歯状装飾、刻印煉瓦
三原樋管(東松山市、都幾川、1902)、円
高畑樋管(東松山市、都幾川、1903)、箱、塔、変則積み
奈目曽樋管(東松山市、都幾川、1903)、箱、塔、変則積み、刻印煉瓦
前樋管(東松山市、都幾川、1903)、箱、変則積み、刻印煉瓦
北河原用水元圦(行田市、中条堤、1903)、アーチ、塔(鋸状装飾)、竪積み、呑口2→吐口1
阻水エン塔(吉見町、大沼、1904)、円、取水塔、刻印煉瓦
新圦(幸手市、中川、1905)、箱、隅石
四反田樋管(東松山市、都幾川、1905)、箱
坂東樋管?(吉見町、横見川 1905)、箱、笠石
沼口門樋(川越市、伊佐沼、1905)、2門
新久保用水樋管(菖蒲町、備前堀川、1915)、箱、塔、刻印煉瓦

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