合の川の跡 (あいのかわ)

 
撮影地:埼玉県北埼玉郡北川辺町、群馬県邑楽郡板倉町

 江戸時代直前までの利根川の流路は、現在のように東へ向かって流れ、太平洋へ
 注ぐものではなく、多くの派川が乱流していて、主流(権現堂川〜庄内古川)は南東へ
 向かって流れ、江戸湾に注いでいた。合の川も利根川の派川の一つであり、
 北利根とも呼ばれ、渡良瀬川へと繋がっていた。ただし、表記は錯綜していて、
 合ノ川、合野川、間の川、間ノ川と様々だ。江戸時代に建てられた道標では間ノ川が多い。
 江戸時代末期の編纂である新編武蔵風土記稿の埼玉郡柳生村(10巻、p.281)にも
 間ノ川と記されている。廃川となってからは、古利根川と呼ばれることもあった
 上州(群馬県)と武州(埼玉県)の国境を規定しているので、かなりの大河だったようだ。

 文禄3年(1594)に、忍城主 松平忠吉(徳川家康の四男)の命により、利根川の派川のうち、
 会の川(南利根)が羽生市上川俣で締切られた。これが利根川の瀬替え(東遷事業)の発端とされる。
 次いで元和7年(1621)には浅間川(東利根)が廃川となり、大利根町佐波から栗橋町にかけて、
 新流路(新川通)が開削された。浅間川と渡良瀬川を繋ぐ捷水路(流路を直線化した放水路)である。
 新川通は埼玉郡の川辺領の真ん中を縦断したために、本来は陸続きだった川辺領は
 北の古河川辺領(北川辺町)と南の向川辺領(大利根町)に分断されてしまった。
 なお、新川通の開削に伴い、北側を蛇行して流れる合の川は事実上、廃川となった。
 しかし、北川辺町飯積〜板倉町大高島の呑口が締め切られたのは以外に遅く、
 天保年間(1830年頃)であるようだ。

 現在、合の川は完全に廃川であり、旧流路もほとんど残っていない。河川敷は開発され、
 水田や釣堀へと変貌している。しかし、合の川の旧流路の周辺には、広範囲に渡って、
 旧堤防の跡が残っている。左岸堤防と右岸堤防の間隔は広い箇所では約150mにも及ぶ。
 また、北川辺町飯積地区の遍照寺付近には、合の川の流路に対して南東の方角に
 微高地が見られるが、これは合の川が形成した自然堤防(砂の分布が多いようなので
 河畔砂丘かもしれない)であろう。

 合の川の旧起点
(1)合の川の旧起点(旧右岸、下流から) 北川辺町飯積
 写真の左上が合の川の旧右岸堤防、奥が現在の
 利根川の左岸堤防。写真撮影は合の川の旧河川敷から
 である。合の川は奥から手前へと流れていた。
 利根川の左岸堤防は合の川からすれば締め切り堤防に
 相当する。現在はスーパー堤防化の工事が進行中だ。
   旧右岸堤防と旧河川敷
  (2)旧右岸堤防と旧河川敷(上流から) 北川辺町飯積
   (1)から300m下流。旧堤防は舗装されて町道に、旧河川敷は
   水田へと開発されている。元来は陸田だったそうで、水田の
   用水源は地下水に頼っていて、随所に小規模なポンプ小屋が
   設置されている。旧河川敷内には
邑楽用水路が合の川の
   左岸・右岸堤防を横断して流れている。

 八幡沼
(3)八幡沼(旧左岸から)
 左岸:板倉町下五箇、右岸:北川辺町麦倉
 (2)から1.3Km下流。旧河川敷内に残る周囲長が
 約200mの沼。かつての合の川はこの写真のような
 景観を呈していたのだろう。旧河道の跡なので、付近には
 砂質土が多く分布している。なお、板倉町側には
 長良神社(祀神は水神)、北川辺町側には鷲神社が多い。

   旧右岸堤防
  (4)旧右岸堤防(下流から) 北川辺町麦倉
   (3)から800m下流、鷲神社の付近。旧堤防の天端は
   舗装され、町道となっている(大半は遊歩道である)。
   北川辺町側の堤防は今でも頻繁に蛇行を繰り返しているので、
   平面形状だけは旧態が保たれているようだ。なお、鷲神社には
   明治時代の様式を持つ
几号の付いた測量水準点(基標No.2)が
   残っている。利根川の沿線(埼玉県)に数多く分布する謎の水準点だ。

 元久保公民館の付近
(5)元久保公民館の付近(川表から) 北川辺町柳生
 (4)から800m下流、元久保公民館脇の旧右岸堤防の
 川表側。十九夜塔(嘉永七年)、馬頭観音(天保四年)、
 地蔵など9体の石仏が祀られている。数が多いので、
 合の川の周辺に散在していたのを一箇所に集めたか(注)

   河川敷に設けられた釣堀
  (6)河川敷に設けられた釣堀(左岸上流から) 板倉町下五箇
   (5)から200m下流。延長が200m近くにも及ぶ大規模な
   釣堀である。この付近の旧河川敷には小規模な沼地も多い。
   左岸堤防上には、昭和32年(1957)に川入組合が
   建立した
水神宮が祀られている。

 旧左岸堤防
(7)旧左岸堤防(上流から) 板倉町下五箇
 (6)から400m下流。板倉町側の旧堤防は車が
 対向できる位の幅があるので、かなり拡幅されている。
 堤防の高さは平屋の住宅と同じ位なので、かなり高い。
 旧左岸堤防はここから300m下流で谷田川の右岸堤防へ
 すり付いて終了する。谷田川には変わった様式の
潜水橋
 (桁が鉄道の古レール、橋面がまくらぎ)が架かっている。

   
旧合の川の終点
  (8)旧合の川の終点(上流から)
   左岸:板倉町海老瀬、右岸:北川辺町柳生
   (7)から400m下流。撮影は合ノ川橋(国道354号線)から。
   合の川は谷田川の右岸へ合流する。手前が合の川で
   奥が谷田川。谷田川はこの後、渡良瀬遊水地の中を流れて、
   最後は
渡良瀬川へ合流する。写真の右端に見えるのは
   愛の沼(釣堀)。奥は東武日光線の
谷田川橋梁

(注)北川辺町に現存する江戸時代建立の石仏は、道標(道しるべ)を兼ねるものが
 少なくないが、それらには行き先として、国境を越えた古河(茨城県)、館林(群馬県)、
 佐野(栃木県)などが刻まれている例が多い。北川辺町は三国(常陸、上野、下野)に
 跨るので、他国との往来も多かったのだろう。


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