ホフマン輪窯 (わがま)
撮影地: 埼玉県深谷市上敷免(じょうしきめん)
明治40年頃、建設された日本煉瓦製造のホフマン輪窯6号窯 -
現地の説明板 -
ホフマン窯は日本に4基しか現存しないが、その中でも最大規模のもの(→注1)。
ホフマン輪窯のように平面形状が小判形の窯だと、火を消さずに焼き続けることができるので、
焼成時間が短縮され、煉瓦の大量生産ができるようになった。また、石炭を燃料としたので、
高温(約1000℃)で煉瓦を焼き上げることも可能となった。これは現代の重油による窯の焼成温度と、
さほど変わらないという。高温焼成により、煉瓦の含水率は低くなり、強度は大きくなる。
日本初のホフマン式輪窯は、明治5年(1872)にウォートルス(明治政府が招聘したイギリス人技師)が
東京の小菅村に建設した薪を燃料とする窯。この施設(後に小菅集治監:刑務所)で製造した煉瓦は、
銀座れんが街の建設にも使われた(→注2)。
小菅集治監は明治38年(1905)には、小菅煉瓦匿名組合となり、東京付近の煉瓦工場の
共同出資によって経営された。その出資金の6割は日本煉瓦製造が占めていた(→文献20、p.126)。
(注1)日本に現存するホフマン窯 (どの窯も稼働していない)
下野煉化製造会社(栃木県下都賀郡野木町、明治22年、完全な円形)
神崎煉瓦(京都府舞鶴市、明治30年、?)
中川煉瓦製造所(滋賀県近江八幡市、大正5年?、長方形)
(注2)銀座れんが街建設の直接の動機となったのは、銀座一帯を焼失させた明治5年2月の大火である。
明治5年3月には、渋沢栄一(当時は大蔵省に所属)が被災民救済募金の建白書を
東京府に対して提出している(→文献32a、p.36)。
↑ホフマン輪窯の煙突 煉瓦造りだったが、関東大震災で倒壊 |
↑ホフマン輪窯の入口 |
アーチ部はクサビ形の異形煉瓦を 使った小口縦の二重巻き立て。 異形煉瓦の小口には、貮(に)、ロ、 ニ、ホ、の刻印が確認できる。 これは、日本煉瓦の社内印だろうか? 煉瓦積みの目地は、モルタルではなく、 トロ(粘土)。モルタル(セメント)は 耐熱性で劣るからだという。 トロはモルタルよりも引っ張り強度が 小さいが、それでも窯自体は充分な強度が あったようで、西埼玉地震(1931年、M6.9、 理科年表による)にも耐えた。 西埼玉地震では、埼玉県北部の 被害(建物の倒壊など)は関東大震災よりも 大きかったという。 写真上部には、燃料投入室(木造)の 床部分も残されている。 なお、ホフマン輪窯の平面形状は 小判型であり、これは奇しくも、 上敷免製(日本煉瓦製造の製品で あることを示した刻印煉瓦)の 図案(縁取り)と一致している。 |
←ホフマン輪窯の中 基本的な組積方式は、壁がイギリス積み、 天井(ヴォールト)は小口積み。 窯の中には18の小部屋(焼成室)がある。 写真右隅に見えるのは、煉瓦の搬入出口。 天井の穴は石炭(粉炭)投入用のもの。 煉瓦の素地(成形し乾燥させた、焼かれる前の煉瓦)は、 この窯の中に積み上げられ、時計方向に順次、 火が入れられた。焼成時間と燃料の節約に つながる合理的な方式である。なお、ホフマン輪窯は 下からではなく、上から火を炊く窯である。 燃料の石炭には創業時は 北海道の幌内炭を使っていたが、 1899年から福島県の常磐炭に 切り替えたそうである。 |