行田市皿尾 (さらお)

 撮影地:行田市皿尾

 行田市皿尾は忍川の左岸に位置し、現在の地形は平坦で処々に自然堤防も見られる。
 皿尾とは、陶器を製造した平坦地の意味だそうだ→文献10
 永禄三年(1560)には、忍城を攻めるために、上杉謙信が皿尾に館を築いている(皿尾城跡の
 石碑に記述あり)。皿尾は、明治30年頃は、星宮村の一部、皿尾村であった。
 忍沼(現.水城公園)と忍川に接するため、地下水位が高く、歴史的に悪水排除に
 苦労した土地だそうである。また皮肉なことに、用水不足にも苦しんでいたという。
 これは、かんがい排水の整備が遅れていた時代の特徴でもある。
 小さな村であったが、明治34年(1901)には、一度に煉瓦造りの堰3基、樋管1基が建造されている。
 
行田市には20基もの煉瓦水門(埼玉県で最も多い)が建設されたが、その先鞭をつけたのが皿尾である。

 大雷神社  ←大雷神社
 雷電神社と久伊豆神社が合祀されている。
 戦国時代には、この付近に皿尾城があった。
 大雷神社の社殿裏には城の土塁の跡を
 想像させる微高地が現存する。
 境内には煉瓦水門改築の石碑があり、
 久保樋の遺構が保存されている。
 皿尾地区では昭和17年(1942)から昭和22年に
 かけて、耕地に暗渠排水工事が実施されている。
 その竣工を記した土地改良記念碑(撰文は
 埼玉県農業会長
 石坂養平)が大雷神社の参道にある 

 なお、隣接する農民センター(昭和30年頃建設)の
 入口付近の花壇に使われている煉瓦は、
 かなり古いもので、[日本]の刻印がある。
 これは
日本煉瓦製造(深谷市)の製品である。
                 煉瓦水門改築の石碑→
    明治36年(1903)建立。碑文には皿尾村の
    用水路の水源は、星宮村西北の湧水であったと
    記されている。これは現在の熊谷市池上あたりに
    相当すると思われる。荒川が形成した、
    熊谷扇状地の伏流水が主水源だったのだろう。
    なお、この用水路の名は武蔵国郡村誌の
    皿尾村の項によれば、長大用水堀だと思われる。
    幅3間、深さ6尺とあるからかなりの大きさだ。
    用水専用ではなく、用排水兼用であろう。
    以下のように煉瓦堰と水門が設置されていた。

             [水源]
              ↓
             外張堰
              ↓
       (西)   松原堰
  久保樋   (東)
              ↓
             堂前堰
煉瓦水門改築の石碑
 石碑の題字 ←石碑の題字

堰樋改築碑銘と篆刻されている。
天雲先生の鑑定によると、
[碑]は漢の時代の字体だそうだ。

皿尾の煉瓦水門:[ 松原堰 ][ 堂前堰 ][ 久保樋