福川 (井殿橋から奈良川排水機場まで) [福川のページ一覧]
撮影地:埼玉県大里郡妻沼町
かつて福川は妻沼町内では激しく蛇行して流れていたが、そのほとんどが現在は
直線化されている(昭和初期の県営事業で新たに河道を開削)。福川の旧流路の跡が
左岸側の妻沼町弥藤吾から上根、右岸側の妻沼町日向から熊谷市上中条に残っている。
旧流路の一部は左岸側が旧福川(都市排水路)として、右岸側が奈良川(農業排水路)として
整備されている。右岸側には沼地となって完全に廃棄された区間も存在する。
妻沼町は利根川の右岸堤防と中条堤(町の東端、行田市との境界に設けられた旧堤防)によって
悪水の自然流下が遮られていた。なおかつ主要な排水路である福川自体が蛇行箇所が多く、
通水断面も狭小だったので、悪水の流下能力が不足していた。そのため、常習的に
湛水被害を蒙っていたが、現在は福川の下流部には要所要所に排水機場が設置されている。
(1)井殿橋の付近(右岸から) 左岸、右岸:妻沼町西野 井殿橋は県道341号太田熊谷線(妻沼往還)の橋。 国道407号線の妻沼バイパスが開通するまでは、 県道341号線が刀水橋で利根川を越えて、群馬県に 通じる主要道路だった。右岸橋詰に鎮座する長井神社は 旧名を井殿権現社といった。福川は巨大な堤防が築かれ、 河川敷もまったくないので、水辺には近づき難いのだが、 意外に水鳥は多く棲息している。 |
(2)新奈良川排水機場の付近(上流から) 左岸:妻沼町上根、右岸:妻沼町田島 写真(2)から800m下流。この地点には両岸に排水樋門が 設けられている。水害常襲地だった福川の歴史が垣間見れる。 左岸の旧福川排水機場は旧福川(福川の旧河道跡を 排水路に整備)を経由して、備前渠用水の余水や 生活排水を放流している。右岸の新奈良川排水機場は 新奈良川(準用河川)(注1)を経由して、奈良堰用水の 余水や都市排水を福川へ放流している。 |
(3)上須戸堰(下流から) 妻沼町上須戸(かみすど) 写真(2)から1.2Km下流。昭和橋の下流に設けられている。 上須戸堰は北河原用水の取水堰(転倒ゲート装備)、 右岸に設けられた八幡樋管から農業用水を取水している。 福川の河川改修によって八幡樋管が北河原用水の 新たな元圦となった。旧元圦である北河原用水元圦は 八幡樋管から約2.6Kmも下流に位置する。 現在の北河原用水の路線は、おおむね福川の 旧流路である。なお、上須戸堰の上流右岸の長慶寺には 僧が主尊という珍しい様式の庚申像がある。 |
(4)道閑堀排水機場の付近(下流右岸から) 右岸:妻沼町日向(ひなた)、左岸:妻沼町上須戸 写真(3)から600m下流。道閑堀は妻沼町の中心部の 芝川(都市排水)と備前渠用水の流末を集める排水路で、 以前は利根川の右岸へ合流していたが、昭和初期に実施 された福川の改修に伴い、排水先が福川へ変更された(注2)。 しかし、周辺の都市化が進行するにつれ、自然排水のみでは 湛水被害が顕著となったので、現在の排水機場(昭和59年竣工)が 建設された。この地点から下流の福川の流路は、かつての 道閑堀の流路とほとんど一致する。 |
(5)葛和田橋の付近(上流右岸から) 左岸、右岸:妻沼町葛和田 写真(4)から1Km下流。葛和田橋は県道359号線の道路橋。 右岸の橋詰には秦村の開田記念碑(昭和27年建立)が 建てられている。撰文は石坂養平(注3)。碑文によれば、 秦村は永い間、水害や湛水に苦しめられていたが、 利根川、福川、道閑堀の改修によって状況は好転した。 そこで昭和6年(1931)には葛和田・弁財耕地整理組合を 結成し、70町歩の耕地整理を実施した。続いて昭和7年から 昭和10年にかけて日向・葛和田耕地整理組合によって 111町歩の耕地整理が行なわれている(注4)。 |
(6)奈良川排水機場の付近(上流から) 妻沼町葛和田 写真(5)から500m下流。奥に見えるのは落合橋(県道59号 羽生妻沼線)。この地点はかつての福川改修の要所であり、 落合橋の上流左岸にも俵瀬排水機場が設けられている。 奈良川排水機場は旧落合排水機場の跡地に設けられている。 奈良川は大里用水(荒川の六堰頭首工から取水)の 一つである奈良堰用水の流末。排水専用河川であり、 熊谷市上中条から妻沼町日向までの約2Kmの区間は 北河原用水と水路を共用している。妻沼町日向から 終点までの奈良川の流路は、旧福川の跡である。 妻沼町と行田市の市町村界も概ね奈良川に沿っている。 |
(注1)新奈良川は熊谷市玉井〜東別府から始まり、熊谷市と妻沼町の
境界に沿って流れる延長約6Kmの排水河川だが、流域は都市化の
進行が著しいようで、3箇所に広大な調節地が設けられている。
新奈良川は福川の計画洪水量に影響を与えないように河川計画がなされている。
(注2)福川改修の当時、道閑堀合流地点の上流側は大里郡長井村、
下流側は秦村だった。秦村は村の中央に新しい福川が流れることで、
村が分断されてしまうこと、かつ福川には道閑堀が合流することなどから、
福川の改修に対しては強行に反対した。
秦村は昭和30年に妻沼町と合併して消滅してしまったが、
大正末期に設置された秦村と長井村の道路元標は今も残っている。
なお、道閑堀排水機場の対岸の長井神社には、
明治19年(1886)建立の芭蕉の句碑がある。
(注3)石坂養平(1885-1969)は地元の幡羅郡中奈良村(熊谷市中奈良)生まれ。
東京帝国大学哲学科在学中から帝国文学に投稿するなど文芸評論家として
活躍していた。大正9年(1920)に埼玉県議会議員に当選、昭和3年(1928)には
衆議院議員に当選し、3期を努めている。文芸評論家としては石坂養平著作集、
芸術と哲学などの著作がある。別号は二松堂。
なお、氏は県立熊谷高等学校、熊谷東中学校、奈良小学校など、
熊谷市内の学校の校歌を数多く作詞している。
昭和37年(1962)には熊谷市の名誉市民に推挙された。
(注4)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、
葛和田村と日向村の耕地では、税地として水田が計上されていない。
つまり、明治初期の時点では地租の対象となるべき田が
存在していなかったことになる。物産品は大麦、小麦、大豆、小豆などで
あり、畑作が中心だったことがわかる。両村は堤外に位置し、
水損地が多かったので、この状況はおそらく江戸時代から続いていたのだろう。