権現堂川 (その2) (その1)
撮影地:埼玉県幸手市
(1)行幸湖(みゆき)の大噴水(下流から) 右岸:幸手市権現堂、左岸:五霞町元栗橋 舟渡橋と行幸橋の中間にあるのが、スカイウォーター120と 名付けられた大噴水。埼玉県誕生120年記念事業で 建設されたもので、水の噴き上げ高は120フィート(約37m)。 噴水口に設けらた意匠は、埼玉県の県章である勾玉。 |
(2)行幸湖(行幸給排水機場の付近から) 幸手市権現堂 (1)から500m下流、行幸湖の南端。行幸湖は平成16年の 彩の国まごころ国体でカヌー競技の会場となった。 ここにもアオコの除去吸引装置が設置されている。 写真奥の浮き輪はアバー(ゴミ除け)である。 行幸湖の見た目の水質はそれほど悪くはない。 |
(3)みゆき水門と中川(下流から) 幸手市高須賀 (2)から南へ200mの地点。中川の左岸に設けられて いるのが、みゆき水門と行幸給排水機場。放流水門は 鋼製ローラーゲート(幅8.0m)が2門。中川の洪水を 調節池へ流入させるための横越流堰が併設されている。 この付近の中川は権現堂川の旧流路を改修したもの。 つまり、旧権現堂川の上流部は行幸湖、下流部は中川と なっている。現在の中川の右岸堤防は、旧権現堂川の 右岸堤防であり、今でも権現堂堤と呼ばれている。 |
(4)行幸堤の碑(中川の右岸から) 幸手市高須賀〜内国府間 (3)から600m上流、行幸橋(国道4号線、中川)の右岸橋詰。 権現堂堤は明治9年(1876)に、明治天皇が巡幸のさいに 立ち寄ったことから、御幸堤や行幸堤(みゆき)とも呼ばれる(注1)。 写真は権現堂堤の西端にある、行幸堤之碑(明治10年建立、 題字は岩倉具視、撰文は近藤芳樹)。当時の石碑にしては珍しく、 碑文は漢字かな混じりである。碑文によれば、権現堂堤の 修堤工事(島川の水除堤)は明治8年6月に起工し、 同年10月に竣工している。総工費の約85%は民費だった。 |
(5)権現堂堤と防水記念碑(中川の右岸上流から) 幸手市内国府間 (4)から300m下流の地点。 権現堂堤は中川の右岸堤防と遜色のない規模だ。 防水記念碑(昭和8年建立)は、権現堂堤を守るための 水防活動を続けてきた幸手領水害予防組合の解散記念碑。 |
(6)島川改修記念碑(中川の左岸下流から) 幸手市権現堂 みゆき水門の下流、中川の左岸堤防に立つ。昭和五年建立。 本来は行幸橋の左岸下流にあったのだが、橋の改修に伴い、 ここへ移築された。中川の河川改修前には、島川は この付近で権現堂川へ合流していた(注2)。 |
(注1)権現堂堤全体を行幸堤と呼ぶわけではなく、正確には明治8年に
修堤工事が行なわれた区間(現在の幸手市内国府間〜栗橋町小右衛門)が
行幸堤である。行幸堤は日光街道と並行し、一部は街道を兼ねていた。
権現堂堤の修堤工事の目的は、島中領(現在の北葛飾郡栗橋町を
中心とした地域)からの洪水が、幸手領へ流入して来るのを阻止することだった。
そのため島中領囲堤とも称された。武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
葛飾郡栗橋宿(14巻、p.425)にその記述がある。
”島中領囲堤:利根川に沿ひ 宿の南方小右衛門村界より西方伊坂村界に至る
長千九十間 馬踏四間堤敷二十間 水量定杭一ケ所 長さ平水より一丈八尺
修繕費用は官に属す”とある。
この利根川は権現堂川のことである。馬踏(堤防天端幅)が7.2m、
堤敷(堤防の敷幅)が36mなので、かなり大きな堤防である。
なお、明治22年(1889)に千塚村、円藤内村、松石村、高須賀村、外国府間村が
合併して新しく出来た村の名は、北葛飾郡行幸村であった。
また同年には権現堂村、神明内村、木立村、上吉羽村が合併して
北葛飾郡権現堂川村も誕生している。
行幸村と権現堂川村は昭和29年(1954)に幸手町と合併するまで、65年間存在した。
大正時代に設置された権現堂川村の道路元標は今も残っている。
(注2)みゆき水門よりも上流の現在の中川の区間は以前は島川だった。
島川改修記念碑の碑文によれば、改修工事は埼玉県が担当し、
工事は大正13年(1924)7月に起工し、昭和4年(1929)11月に竣工している。
島川の改修区間は、権現堂川村から北埼玉郡大桑村(現在の大利根町北大桑)までだった。
大利根町北大桑には[準用河川 島川起点]と記された標石が現存するが、
それは島川改修工事の起点を示したものだろう。