中川 - 権現堂堤、中川の誕生 [中川のページ一覧]
撮影地:埼玉県幸手市(さって)
かつて、この周辺では島川、権現堂川、庄内古川の流路が複雑に交錯していた。
島川は幸手市高須賀と権現堂の境界付近で、権現堂川へ合流していた。
みゆき水門よりも上流の現在の中川の流路が、ほぼ島川に相当する。
島川は羽生領(現.羽生市、加須市と大利根町の一部)の大落し(主要悪水落)だったが、
権現堂川の背水(堰上げ)の影響を受けて、排水不良が顕著だった。そのため羽生領では
領内の悪水を全量、権現堂川へ排水できなかったので、葛西用水と協議のもと、加用水と
称して、悪水の一部を島川から葛西用水路(久喜市から下流は古利根川)へ排水していた。
明治9年(1876)の調査を基に編纂された、武蔵国郡村誌の葛飾郡高須賀村(14巻、p.421)には、
”島川落:深八尺巾十一間 村の西北 松石中里両村より来り 東方 権現堂村に入る 長さ九丁三十間”と
ある。落(農業排水路)とはいえ、川幅が20m、水深も2.4mあったわけだから、大きな川だ。
権現堂川は利根川(赤堀川)の派川であり、茨城県五霞町中妻で利根川の右岸から分岐し、
埼玉県と茨城県の境界を流れ、幸手市西関宿で江戸川へ合流していた。
権現堂川は川辺領(現.大利根町)や島中領(現.栗橋町)の主要排水路だったが、
河床勾配が緩いうえに、河川が老朽化していて堆砂が激しかった。しかも分岐元である利根川は
長年の堆砂によって河積が狭くなっていて水位が高いため、利根川(赤堀川)の流量よりも
権現堂川の流量の方が多いことも珍しくなかった。また、権現堂川の排水先である江戸川には、
利根川や権現堂川から江戸川へ洪水が流入しないようにと、棒出しと呼ばれる水制工が
設けられ、河道が狭窄部となっていた。そのため、権現堂川の水位は常に高く、川辺領や
島中領の排水が滞留してしまうので、周辺地域では湛水被害が絶えなかった。
庄内古川は江戸時代以前は太日川(渡良瀬川)の派川だったが、流頭を締め切ることで
渡良瀬川から切り離され、悪水路(排水専用)となった。利根川の東遷によって残った、
庄内川の旧流路が庄内古川である。かつては権現堂川も庄内古川へ合流していた。
庄内古川改修記念碑(幸手市上宇和田、宇和田公園、昭和3年建立)によれば、
当時の庄内古川は”桜井村椿を起点とし、八木郷村(やぎさと)長戸呂で江戸川に落ちる悪水路”と
あるから、現在の杉戸町椿付近から三郷市鷹野一丁目へと流れていたと推測できる。
神扇落と惣新田落が合流する付近が、当時の庄内古川の起点である。
排水不良と江戸川からの逆流を防ぐために、江戸時代以降数回に渡り、庄内古川の流路は
下流へと延長され、江戸川への合流口はその度、南下している。
大正7年(1918)から昭和3年(1928)にかけて実施された国営(内務省直轄)の庄内古川改修事業
(中川改修工事の付帯工事)で、上記の河川を大改修した結果、現在の中川の流路が
確定したといえる(注1)。これによって、周辺地域は権現堂川と江戸川からの逆流および排水不良から
ついに解放されたのである。庄内古川改修事業が、流路の総延長の割には工期が長いのは、
新水路の掘削区間が約10Kmあったこと、主に人力による掘削・浚渫工事が実施されたこと、
などによる。当時は既に、土木工事には建設機械が導入されていたが、不況対策の一環として
雇用機会の創出が重要課題であったので、あえて人力主体の工事が実施された。
庄内古川改修事業では、河道に関しては以下の改修工事がおこなわれている。
◇ 幸手市権現堂付近で島川(羽生領の落し:悪水路)を新中川へ付け替え
◇ 川辺領・島中領の落しである権現堂川の締切・廃川(昭和3年) ←内務省による利根川改修事業
◇ 廃川となった権現堂川の約4Kmの区間を新中川の流路へ転用
◇ 上宇和田付近で五霞村からの落しである江川(現.五霞落川)を新中川へ合流させる
◇ 上宇和田から下流に吉田村新水路を開削して、権現堂川を庄内古川へ付け替え
◇ 松伏領新水路を開削して、庄内古川を古利根川へ付け替え(庄内古川は江戸川に合流していた)
◇ 庄内古川は全線を浚渫(残土は付近の湿地の埋め立てや水田・畑の造成に使われた)
これにより、中川の排水能力はかなり向上し、周辺地域の悪水は中川へ自然排水されるようになった(注2)。
なお、上述の新中川とは、筆者が付けた仮称(旧権現堂川の中流部に相当する)。
新中川よりも上流の島川の改修は埼玉県によって実施された。
みゆき水門の左岸下流に、島川改修記念碑(昭和5年建立)が建てられている。
↑みゆき水門の付近(幸手市権現堂、下流から) 上流300mには国道4号線(日光街道)の行幸橋が架かる。 右岸の堤防は桜堤で有名な権現堂堤、左岸に見えるのは、 みゆき水門。権現堂調節池(行幸湖)と中川を結んでいる。 中川は河道貯留のためか、川幅がかなり広くなっている。 かつて、この付近は利根川の最重要水防地点だった。 さらに権現堂河岸があったことから、昭和初期まで 内陸水運の中心地でもあった。なお、権現堂堤には 4基の古い水門(明治時代竣工の新圦、大正時代竣工の 権現堂川用水水路橋、昭和初期竣工の巡礼樋管と 堤下用水樋管)が残っている。これらは 権現堂川用水路(明治25年開削)の遺構である。 |
↑みゆき水門(幸手市権現堂、右岸下流から) 水門の奥には権現堂調節池(県管理)が控える。 権現堂調節池とは、権現堂川の末端に設けられた多目的な 調節池(平成4年完成、容量:360万m3)。廃川のままだった、 権現堂川の上流部は一級河川として復活し、中川の 洪水調節(洪水を横越流堰から調節池へ流入させる)だけでなく、 工業用水や上水の取水も担っている。 中川へ河川維持用水も供給している。旧権現堂川は全区間が 自然河川ではなく、中世に太日川(ふとひがわ:現.渡良瀬川)の 支川として開削されたのが起源のようである。その後も権現堂川は 幾度も改修がなされ、明治時代後期には、埼玉県栗橋町で 利根川から分岐し(派川)、千葉県関宿町で江戸川に合流していた。 |
↑権現堂堤(幸手市権現堂〜内国府間) 江戸時代初頭から存在する古い堤防で、過去に数度の 改修が行なわれた。明治8年(1875)には権現堂川に 合流していた島川を締切るために、地元負担(民間費)で 新たに築堤がなされた(注3)。現在、権現堂堤は中川の 右岸堤防となっている。堤防天端(幅は実測4.8mもある) には、遊歩道が整備され、両脇には埼玉県随一とも 称される見事な桜並木が続く。春には桜の淡いピンクと 菜の花の黄色で、権現堂堤は彩やかにドレスアップされる。 |
↑上船渡橋の付近(右岸下流から) 右岸:幸手市北三丁目、左岸:茨城県五霞町元栗橋 上船渡橋から300m下流の河川敷。右岸側にはひょうたん池と 呼ばれる周囲長約300mの沼がある。数箇所にデッキが 設けられていて、釣り人が多い。上 船渡橋から下流では、旧権現堂川の右岸堤防は市道として 整備されている。右岸堤防の上には水神社が祀られている。 ここは権現堂河岸の跡地。水神社は舟運関係者が 信仰したもので、敷地内には大杉神社と弁財天が祀られている。 |
↑中川(上流から) 左岸:茨城県五霞町元栗橋、右岸:幸手市権現堂 ひょうたん池から100m下流。ここまで中川は南東へ 向かって流れて来たが、この付近から東へと大きく方向を 変える。右岸側の岸辺には、木製の杭が多く見られるが、 それらは水制工だったのだろう。右岸側の旧堤防の配置も 流路に合わせて直角に曲がっている。堤防上には 古い仕様の三角点が残っている。 一方、左岸側には、はっきりとした築堤跡は見られない。 |
↑五霞落川の合流(茨城県五霞町幸主、中川右岸から) みゆき水門から4.2Km下流の地点。中川の左岸に 五霞落川(ごかおとし、排水路)が合流する。合流地点には 中川から五霞落川への逆流を防ぐために、五霞水門が 設けられている(五霞落川にはここから300m上流にも 昭和51年竣工の五霞樋門がある)。写真の奥は茨城県五霞町。 茨城県は利根川の左岸(北側)に位置するが、五霞町だけが、 利根川の右岸(南側)である。利根川(赤堀川)の流路変遷の歴史が 覗える。赤堀川とは渡良瀬川と常陸川を結ぶために開削された放水路。 |
(注1)中川の流路の確定:
国営の庄内古川改修事業が終了した後、昭和3年(1928)から同16年(1941)にかけて、
県営の羽生領用排水幹線改良事業が実施され、島川よりも上流部の改修が行なわれている。
現在は中川の幹線となった天神堀、一級河川に指定されている各支川(午の堀や手子堀など)は
この時に改修・整備されている。
(注2)庄内古川改修事業の効果:
庄内古川の改修事業によって、周辺地域の排水はかなり向上したようであり、
中川への自然排水が可能となった。旧排水施設は撤去され、各地にそれを記念した石碑が残っている。
例えば、羽生領は悪水を葛西用水路へ落とすことを廃止した(葛西加用水与八圦跡の碑)。
島中領は権現堂川に設けていた排水機場を廃止し(島中領治水之碑)、さらに新稲荷木落を開削して
悪水は直接、中川へ排水することとなった。川辺領は中渡排水機場を廃止した(中渡排水機場跡の碑:
島川の支川である稲荷木落への排水が困難な場合、利根川へ機械排水していた)。
以上は島川だった上流部の区間だが、庄内古川だった中下流の区間でも排水能力が見違えるほど
向上したようで、庄内領では数箇所に設けられていた排水機場を全て廃止している
(下柳永沼悪水路普通水利組合 排水機記念碑)。
さらに古利根川へ排水していた倉松落(幸手領の悪水路、現在の倉松川)は、庄内古川の改修後の
昭和8年から昭和15年(1940)にかけて、流路変更を伴う大改修が実施され、
排水先を水位が低下した中川へと改めている。
(注3)権現堂堤:
現在の国道4号線が、その新権現堂堤である。明治9年(1876)に明治天皇が
巡幸のさいに立ち寄ったことから、新権現堂堤は御幸堤や行幸堤(みゆき)とも呼ばれる。
権現堂堤の西端、行幸橋(中川、国道4号線)の付近には行幸堤之碑(明治10年建立、
題字は岩倉具視)も建てられている。権現堂堤は明治末期まで、中条堤(妻沼町〜行田市)と共に
利根川治水の最重要地点であり、なおかつ堅牢な砦であった。ひとたび権現堂堤が決壊すると、
その被害は遠く、江戸市中にまで波及したのだという。そのため、御府内御囲堤(ごふない おかこいづつみ)とも
称された。御府内(江戸)を権現堂川の洪水から守る堤防という意味である。
そして洪水時に権現堂堤を守るために、不眠不休の水防活動を続けてきたのが、
幸手領水害予防組合だ。権現堂川の廃川に伴い、組合はその役目を終え昭和3年に
解散に至った。内国府間の権現堂堤に立つ防水記念碑(昭和8年建立)はその記念碑であり、
長年の水害と水防の労苦から解放されること、権現堂堤が今後は桜の名所として
保存されることの喜びが碑文に記されている。
”累代領民水防の労苦はとこしえに人事の花として讃へられん
今碑に録して水防を記念し敢て人心の意に沿はんとす”
江戸時代の権現堂堤の規模と構造について、興味深い記録が残っている。
新編武蔵風土記稿の葛飾郡権現堂村(2巻、p.210)の利根川(権現堂川のこと)に
”川に沿い堤あり、長五百三十間、高さ一丈余、当所は水流屈曲の所に当り、
水勢の突掛殊に激しく堤の修築堅固ならざれば保ち難し、されば水涯に許多の
杭をたて、其様丸馬出しの如く、別に堤を築て流水を防ぐ、是を土出しと唱、
其数第一番より八番に至る、又平常俵千俵縄三千房を貯へて非常に備ふ、
此堤公の修理にて、当村及八甫、千塚、円藤内、松石、高須賀、内国府間、
上吉羽、木立、上宇和田、十村組合なり”と詳細が記されている。
当時の権現堂堤の規模は、権現堂村の区間では長さが五百三十間(954m)、
高さが一丈(3m)であり、堤防の水際には乱杭を打って、出し(根固めを兼ねた水制工)が
設けられ、さらに8箇所に突堤形式の出しまで築かれていた。かなり重装備の堤防である。
十村組合と称されているのが、上述した幸手領水害予防組合の前身の組織である。
なお、前掲書には権現堂堤の築造は、天正四年(1576)と記されている。
(余談)江戸時代には権現堂川(当時は利根川の本流)の洪水を鎮めるために、
母と娘の巡礼が人柱にされた(志願したとの説も)という伝承もある。
権現堂堤にはその慰霊のために、順礼供養塔と順礼供養之碑が建立されている。
この付近では、川の氾濫と人柱に関する、似たような言い伝えが幾つか残っている。
例えば、権現堂川と並び利根川の本流の一つだった浅間川(東利根)にもある。
北埼玉郡大利根町砂原の鷲神社(埼玉大橋の右岸)には巡礼の母娘、
加須市外野の川圦神社(埼玉大橋の右岸上流)には巡礼の女性を人柱にして、
利根川の洪水を鎮めたという伝承が残る。
また、利根川では羽生市本川俣のお化けトンネル付近で、松阿上人(しょうあしょうにん)が、
対岸の群馬県邑楽郡明和町須賀の菅原神社では、慶讃上人が自ら人柱になって、
利根川の洪水を鎮めたと伝えられている。