権現堂川 (その1) (その2

 撮影地:茨城県猿島郡五霞町、埼玉県北葛飾郡栗橋町、幸手市

 権現堂川は利根川と中川の中間に位置する、利根川水系の一級河川(昭和46年指定)だが、
 その実態は権現堂調節池である。権現堂調節池とは平成4年3月に完成した延長5.2km、
 (北端は茨城県猿島郡五霞町川妻、南端は埼玉県幸手市権現堂)、湛水面積0.57Km2
 堤体高A.P.14.5m、満水位A.P.11.5m、敷高A.P.3.0m、有効貯水容量370万m3の多目的調節池。
 治水と利水:中川の洪水調節、県営水道の水源、周辺地域の雨水を一時的に貯留、
 旧権現堂川の既得水利権へ水を供給を主な目的としている。
 権現堂調節池の諸元は、権現堂調節池工事誌、埼玉県 権現堂調節池建設事務所/編、1992による。

 権現堂川の流路変遷:
 昭和初期まで、旧権現堂川は五霞町川妻で利根川から分岐し、茨城県と埼玉県の境を
 東へ流れ、五霞町江川と幸手市西関宿の境界で、江戸川へ合流していた(注1)
 権現堂川が江戸川に合流する付近には、棒出しと呼ばれる突堤が設けられ、
 河道が狭窄部となっていて、そこで江戸川への流入量の調節がおこなわれていた
 洪水などで権現堂川が増水した場合、江戸川へ流れ込む権現堂川の水量は棒出しによって
 制限され、逆川を経由して赤堀川(新利根川)、中利根川へと導水される仕組みとなっていた。
 江戸川の上流部は人工河川であり、寛永12年(1635)から寛永18年にかけて新規に
 開削されたものだ。当時は新利根川とも呼ばれていた。江戸川が成立する以前には、
 権現堂川は庄内古川、太日川(ふとひ、渡良瀬川の旧流路)を経て、江戸湾(東京湾)に注いでいた。
 つまり、利根川の水は権現堂川と庄内古川を経由して、東京湾へ流れ込んでいた。

 内務省による利根川改修事業によって、旧権現堂川は昭和3年(1928)に廃川となったが、
 上流部は溜井として改修され、農業用水の水源として使われていた(注2)
 権現堂調節池はその旧権現堂川の上流部を中川総合開発の一環として、
 再整備した平地ダムである。ダム湖の名称は行幸湖(みゆき)。 
 行幸湖への水の流入・流出を調節するために、北端には利根川へ給排水する川妻給排水機場、
 南端には中川へ給排水する行幸給排水機場が設けられている。
 なお、行幸とは明治9年(1876)に明治天皇が巡幸のさいに、権現堂堤(権現堂川の旧堤防、
 現在は中川の右岸堤防)に立ち寄ったことに由来する(従者には岩倉具視や木戸考允)。
 それ以来、権現堂堤は御幸堤や行幸堤とも呼ばれている。

 権現堂川の舟運:
 旧権現堂川は長い間、利根川の本流であった。沿岸には数多くの河岸場が設けられ、
 特に権現堂河岸には廻船問屋が軒を連ね、江戸との間を往来する船で賑わっていた。
 承応3年(1654)に赤堀川(新利根川)の開削がほぼ完成し、太日川(渡良瀬川)と常陸川が結ばれ、
 現在の利根川の流路の原形が成立した後も、
権現堂川は周辺地域の河岸場の拠点であり、
 その地位はさほど変わらなかったようだ
(注3)なお、武蔵国郡村誌の葛飾郡権現堂村
 (14巻、p.381)によれば、権現堂河岸は慶長四年(1599)に伊奈駿河守によって、
 近郷七ヶ領の米及び荷の津出し場(舟への積み出し場)として開かれたのだという。
 また、文政年間(1818-1829年)に編纂された新編武蔵風土記稿には、
 権現堂河岸には船問屋が六軒あり、船九艘が常備されていたと記されている。

 国境を流れた権現堂川:
 江戸時代以降、下総国と武蔵国の国境を規定したのが権現堂川だった(もっとも近世以前は
 古利根川古隅田川が下総国と武蔵国の国境だったが)。現在も権現堂川と中川(かつての
 権現堂川の流路を改修)が、茨城県と埼玉県の県境となっている。
 つまり、権現堂川の北側に位置していた茨城県の五霞町は赤堀川の開削によって、
 新利根川の南側に取り残されてしまったのである。これと同様なのが埼玉県の北川辺町であり、
 浅間川(東利根)と太日川(渡良瀬川)を結ぶために、新川通が開削されたために、
 北川辺町は新川(新利根川)の北側に取り残されてしまった。→北川辺町付近の利根川

 権現堂樋管
(1)権現堂樋管(利根川の右岸堤防から) 五霞町川妻
 利根川橋(国道4号線)から1.3Km下流の右岸。
 権現堂樋管は水道用水供給のための取水樋管。
 1992年竣工、ローラーゲート1門(幅2.5m)。
 取水した水は川妻給排水機場を経由して、
 権現堂川へ送られる。→
この付近の利根川
 旧施設は煉瓦造(1919年竣工、内部は鉄筋コンクリート)。
   川妻給排水機場
  (2)川妻給排水機場(下流から) 五霞町川妻
   (1)から200m下流、行幸湖の北端。湖面には随所に
   ポンプの付いたブイが浮かんでいる。これは超音波の
   振動を利用したアオコの除去吸引装置、水質浄化のために
   設置されている。閉鎖水域かつ富栄養化の影響で、
   行幸湖にはアオコ(植物プランクトン)が発生しやすいらしい。
   そういえば、水際にヨシ(水質浄化に役立つ)が少ないなあ。

 東北新幹線の付近
(3)東北新幹線の付近(上流から)
 右岸:栗橋町東六丁目、左岸:五霞町川妻
 (2)から600m下流。権現堂川の平均的な川幅は約100m
 あるのだが、橋が架かる付近では計画的に川幅が
 狭められている。これは橋の規模を小さくするためと
 既存の橋や道路の接続状況に合わせたためだろう。
 東北新幹線の下には、霞橋(鋼桁、2スパン、全長46m、
 1975年竣工)が架かっている。橋名は五霞町に由来するの
 だろうか。橋が架かるまでは川妻の渡しだった。右岸の
 香取八幡宮には明治時代の
几号水準点が残っている。

   
国道4号線と並走
  (4)国道4号線と並走(下流から)
   右岸:栗橋町小右衛門(こうえもん)、左岸:五霞町川妻
   (3)から500m下流。右岸側の高台が国道4号線(日光街道)。
   かつては権現堂川の右岸堤防だった。なお、小右衛門と
   いう地名は、この地の開拓者の名に由来するそうだ。
   現在、権現堂川の両岸には、ほぼ全線に広い
   (全幅7m、舗装面の幅3.5m)、遊歩道が整備されている。
   随所に休憩所とトイレ、湖に面したテラスが設けられている。
   行幸湖にはかなりの数のカモやカワウが棲息しているが、
   それらの生態を身近で観察できる。   

 大平橋の付近
(5)大平橋(たいへい)の付近(上流から)
 左岸:五霞町元栗橋、右岸:栗橋町小右衛門
 (4)から600m下流。大平橋の前身は渡船であり、
 勘平の渡し(注4)といった。権現堂川は川幅が
 100〜200mもあったので、橋を架けるのは困難だった。
 大平橋の右岸下流には小右衛門の一里塚の跡があり、
 塚の上には、権現堂川から移築されたという弁財天堂が
 建てられている。一里塚跡から1.4Km南には安永四年
 (1775)建立の日光街道の道しるべも残っている(注5)
 現在、権現堂川の左岸側には江川工業団地などの
 工業団地が林立している。行幸湖の岸辺のテラスでは
 釣り糸を垂れる人も多い。コイ、フナ、ナマズなどが
 棲息しているそうだが、最近は外来種のブラックバスや
 ブルーギルが増えているとのこと。

   
舟渡橋の付近
  (6)舟渡橋の付近(下流から)
   右岸:幸手市外国府間(そとごうま)、左岸:五霞町元栗橋(注6)
   (5)から1.5Km下流。舟渡橋は鋼桁、3スパン、全長80m。
   権現堂川は昭和初期まで舟運が盛んで、川沿いには
   数多くの河岸場が設けられ、船問屋などが軒を連ねていたという。
   河岸場は渡船場を兼ねることも多かった。舟渡橋の親柱の上には、
   かつて権現堂川を運行していた高瀬舟のオブジェが置かれている。
   帆が設けられた(自走できる)大型船である。この付近は
   日光街道から筑波道が分岐する地点だったので、水運だけでなく
   陸運や道中の要所でもあった。ちなみにここから1.5Km南の
   中川には、上船渡橋という名の橋が架かっている。これらの橋の
   前身は舟渡橋が外国府間の渡し、上船渡橋が権現堂の渡しである。
   権現堂の渡しには権現堂河岸があり、河岸場の関係者が
   舟運の安全を祈願して、
水神社と大杉神社を祀っていた。

(注1)権現堂川は五霞町川妻で利根川から分岐して流れていたが、
 この形態には渡良瀬川の派川説と自然形成説がある。
 ただし、自然形成説は人工が加わった結果の所産である。
 元和七年(1621)に伊奈忠治によって、五霞町川妻から大山沼、釈迦沼、
 水海沼(いずれも茨城県猿島郡総和町に存在した沼)に向かって、
 利根川の新河道である赤堀川が開削された(利根川の東遷事業)。
 その目的は利根川の洪水を、放流するための放水路であった。
 しかし、新河道は台地を流れるうえに、幅が七間(12.6m)と狭かったので、
 思ったようには水が流れずに、赤堀川が呑みきれない水は氾濫し、
 南下して権現堂川を形成したのだという(白岡町史
 通史編 上巻、p.364)。
 つまり、権現堂川は赤堀川の第一期開削が、失敗に終わった副産物なのである。

 後に伊奈忠治は、寛永十二年(1635)には、赤堀川の拡幅と
 佐伯渠の開削、寛永十八年(1641)には権現堂川の拡幅を実施している。
 この年には江戸川の開削が完了した。赤堀川を維持する一方で、
 権現堂川は舟運を主体とした利根川の主流筋へと位置付けられたことになる。
 しかし、利根川の洪水の大半は赤堀川ではなく、権現堂川へと流下していた。
 なお、明治17年(1884)測量の迅速測図によれば、五霞町川妻から
 小手指にかけての権現堂川の川幅は、狭窄部となっていて、
 明らかに狭く、下流の大福田付近の1/3位しかない。
 江戸時代を通じて、赤堀川への流入量は制限されていたことがわかる。
 この状態は利根川の近代改修が開始されるまで続いた。

 現在、幸手市権現堂から上吉羽、木立へと流れているのは中川だが、
 これは権現堂川の旧流路を改修したもの。この旧流路は享保年間に
 直線化された区間もあるが、基本的にはほぼ自然河川(旧利根川)である。
 さらに幸手市上宇和田で中川から分岐し、幸手市西関宿で江戸川へ
 注いでいる
幸手放水路も権現堂川の旧流路跡である。つまり、旧権現堂川は
 上流部が権現堂調節池、中流部が中川、下流部が幸手放水路へと変貌している。

(注2)権現堂堤に昭和8年(1933)に建立された権現堂用水記念碑がある。
 撰文は内務技師
 工学博士 真田秀吉。権現堂用水は利根川に設けた樋管から
 溜井に通水し、溜井からは
権現堂川水路橋(中川の上を横断)を通じて、
 
巡礼樋管堤下用水樋管へ送水していた。
 ただし、この用水は島川の代替水源なので、権現堂用水という名称には疑問がある。
 葛西用水の北側用水から分水するのが本家の権現堂川用水だ。
 杉戸町北蓮沼の中川右岸には、
権現堂川用水の碑(明治25年建立)が残っている。

(注3)明治9年(1876)の調査を基に編纂された、武蔵国郡村誌の
 葛飾郡権現堂村(14巻、p.382)には、”利根川:この辺にて権現堂川と云ふ
 
 一等川に属す 深処一丈八尺浅処一尺 広処百二十間狭処九十六間〜以下略”とある。
 葛飾郡権現堂村とは現在の幸手市権現堂、権現堂川の南端付近の地区である。
 明治初期の時点では、未だ公的には利根川と呼ばれていて、地元でのみ権現堂川と
 呼ばれていたようだ。権現堂川の川幅は広い所が216m、水深が深い所が5.4mも
 あったわけだから、堂々とした大河だ。当時の測量地図である迅速測図などを見ても、
 五霞町付近では権現堂川の方が利根川(赤堀川)よも川幅が広い。

(注4)武蔵国郡村誌の葛飾郡小右衛門村(14巻、p.433)に、勘平の渡が記されている。
 ”勘平渡:野道に属し
 村の東方権現堂川の中流にあり 渡船一艘 私渡”とある。
 武蔵国郡村誌を調べた限りでは、明治初期の時点では権現堂川には
 ほとんど橋が架けられていなかったようである。現在ある橋の前身は全て渡しである。
 例えば、川妻の渡し(霞橋)、外国府間の渡し(舟渡橋)、権現堂の渡し(上船渡橋)

(注5)幸手市外国府間(日光街道の西)には、安永四年(1775)建立の地蔵が
 残っているが、それは
道標(道しるべ)を兼ねていて、日光街道だけでなく、
 徒くば(筑波)道、川徒ま(川妻)道、まい者やし(前林)への案内が記されている。


(注6)茨城県の五霞町には元栗橋があり、埼玉県には栗橋町がある。
 地名が示すように、歴史的には埼玉県の栗橋町は後から成立している。
 新編武蔵風土記稿の2巻、p.218によれば、栗橋町の前身である栗橋宿は
 慶長年間(1596-1614年)の成立である。下総国栗橋村の2人の民がお上に
 願い出て、伊奈備前守忠次の指揮の下に開墾したのが始まりである。
 その後、民家が次第に増え、宿駅の形態が形成されてしまったので
 新栗橋とし、本家の栗橋村は元栗橋と名を改めたのだという。
 元栗橋が衰退した原因の一つに、権現堂川による水害の被害が
 挙げられることが多いが、これが(注1)で述べた権現堂川の上流部の
 流路が渡良瀬川の派川だとする説の論拠にもなっている。元和七年(1621)の
 赤堀川の開削の副作用として、権現堂川が形成されたのなら、元栗橋の衰退、
 栗橋宿の成立時期が、元和七年よりも早い点が水害の被害と矛盾するからである。


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