市野川 〜 八和田神社の付近から粕川の合流まで [市野川のページ一覧]
撮影地: 埼玉県比企郡小川町、嵐山町
(1)八和田神社の付近(下流から) 右岸:小川町奈良梨、左岸:嵐山町越畑(おっぱた) この付近では市野川の様相は激変し、 ゆったりと流れ、落し(農業排水路)の諏がある。 河床勾配は明らかに緩くなっている。市野川の両岸に 広がる低地(市野川の氾濫によって形成されたもの)は 現在は見事な水田地帯へと変貌している。右岸の微高地に 位置する八和田神社は合祀される前は諏訪社だった。 境内には推定樹齢800年の大スギ(小川町指定文化財)が ある。八和田(やわた)とは、かつてのこの付近の村名で だった比企郡八和田村に由来する。八和田村は上横田村、 下横田村、中爪村、奈良梨村,能増村などが合併して 明治22年に誕生し、昭和30年に小川町と合併するまで 存続した。旧村域には古い火の見櫓が多く残っている。 |
(2)市野川橋の付近(上流から) 左岸:嵐山町越畑、右岸:小川町奈良梨 (1)から300m下流。県道11号熊谷小川秩父線(俗に云う 秩父往還)が市野川を横断する地点に架かるのが市野川橋。 右岸の奈良梨交差点の付近は古くは鎌倉街道上道の 宿駅であり、その後は川越・児玉往還の宿場として賑わい、 奈良梨宿と呼ばれていた。なお、市野川橋という名の橋は、 下流の県道27号線(東松山市〜吉見町)にもある。 そちらは松山城跡と吉見百穴の西側に架かっている。 この付近では市野川の川幅(堤防天端間の距離)は 約22mだが、堤防の法面が緩勾配なのと市野川の水量が 少ないために、水面幅は小さい。河道内には樹木が意外に 多い。市野川橋の下流右岸にも取水堰(珍しくコンクリートの 固定堰)とファームポンドが設置されている。 |
(3)新川の合流(上流から) 左岸:嵐山町越畑、右岸:小川町上横田〜下横田 (2)から1Km下流。右岸へ新川(一級河川)が合流する。 小川町高谷地区から発する中谷津川と蟹田川が合流して 新川となる。左岸の丘陵は埼玉県の自然環境保全地域に 指定されていて、中腹には戦国時代の越畑城跡がある。 また下流の杉山地区にも杉山城跡がある。 これらの城は鉢形城と松山城を結ぶ延長線上にあり、 街道を押さえる重要な役割を果たしたのだろう。 |
(4)関口堰(右岸から) 右岸:小川町中爪、左岸:嵐山町杉山 (3)から400m下流。写真(3)の上部には市野川の流路を 塞ぐ木立が見えるが、その中に関口堰が設けられている。 鋼製ゲート4門の可動堰で左岸へ農業用水を取水している。 上流部に設けられた堰の大半がラバーダム形式なのに対して、 関口堰が古典的な可動堰なのは歴史の古さを示しているのだろうか。 この付近の左岸一帯は、昭和30年(1955)まで比企郡七郷村だった。 昭和11年に設置された七郷村の道路元標が七郷小学校の脇に残っている。 |
(5)粕川の合流(下流から) 左岸:嵐山町太郎丸、右岸:嵐山町菅谷 (4)からKm下流。精進橋(県道69号線)の上流左岸へ 粕川(一級河川)が合流する。嵐山町越畑の山地から流れて 来る延長約3.5Kmの小河川だ。合流地点には構造物はなく、 自然合流である。市野川の右岸側は都市化が進行しているようで 地産団地などが立地している。そのため、団地からの生活雑排水は 市野川へ放流されている。精進橋の右岸下流に位置する第一公園 (川島地区)は遊水池を兼ねている。市野川の洪水ピーク量を 軽減させるためである。なお、ここから900m上流の右岸へは 志賀沢(普通河川)も合流している。精進橋から600m南東には 鬼鎮神社が鎮座するが、これは畠山重忠が菅谷城の鬼門を 封じるために勧請したとの伝説がある(注)。 |
(注)鬼鎮神社の対岸には、淡洲神社(あわす)が多く分布している。
嵐山町太郎丸、滑川町水房、滑川町伊古などにある。
伊古の比売神社は延喜式内社であり、江戸時代には
淡洲明神とも称されていた。淡洲神社の祭神は
速御玉比売命(はやみたまひめ)が多いようだ。
滑川町水房の社は阿和須神社と表記しているが、
大和国添上郡の阿波の神社を勧請したもので
祭神は息長足比売命(おきながたらしひめ)である。