さすなべ落 (その1) (その2)
撮影地:埼玉県熊谷市、行田市
さすなべ落は延長約9Kmの利根川水系の河川。名称の落とは、本来は排水路のことだが、
現況は用排水兼用(農業用水)となっている。熊谷市玉井を起点として、
頻繁に蛇行を繰り返しながら東へ向かって流れ、行田市に入ってからは北河原用水と
水路を共有し、常時は北河原用水を経由して見沼代用水(星川)に排水されている。
洪水時には、さすなべ排水機場(行田市酒巻)から利根川へ強制排水される。
さすなべ落は以前は漢字で、差鍋落と表記していた(注1)。
[さすなべ]という聞きなれない名称は広辞苑によれば、”銚子(さしなべ)とよばれる、
弦と注ぎ口のある鍋で、酒などを温めるのに用いる”ものらしい。
さすなべ落の上流部は余計堀であるが、その周辺流域の地形は盆状となっていて、
いかにも水が湛水しやすそうである。そして盆地の水が流れ出る先がさすなべ落なので、
流出形態と流域の平面形状とが、銚子に似ていることからの命名なのだろうか。
だとしたら、鍋の部分が余計堀の流域、注ぎ口がさすなべ落に相当する。
それにしても、余計堀に差鍋落とは風流な命名だ。
(注1)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡上中條村(13巻、p.260)に
”差鍋堀:深六尺巾三間 村の西の方 今井村より来り少し北を東流して
東北の方 北河原村界に至る長十七町 田の用悪水に供す”とある。
|
(2)さすなべ落の起点付近 (下流から) 熊谷市玉井 (1)から600m下流。ここは玉井地区と上奈良地区の 境界でもある。余計堀は国道17号深谷バイパス(上武道路)を 横断した付近から、さすなべ落と名前を変える。上武道路と 県道359号線が交差する玉井(北)交差点付近が、 さすなべ落の起点である。さすなべ落の北側には奈良堰用水が 流れているが、奈良堰用水の余水は奈良川へ集められ、 最終的に福川へ排水される。一方、玉井堰用水の余水を 集めて流れるのが、さすなべ落である。 |
(3)妙音寺の西側 (上流から) 熊谷市上奈良 写真(2)から800m下流。転倒ゲートが設けられている。 用排水兼用なのだろう。下流左岸に位置する妙音寺には 鎌倉時代に奈良地区を治めていた奈良三郎(成田助高の 三男)の墓がある(妙音寺を開いたのは奈良三郎、 妙音寺は奈良氏の館跡とされている)。この付近の地名 奈良、玉井、別府はみな中世武士に由来する。 なお、妙音寺参道の脇には、天保三年(1832)建立の 石橋供養塔が祀られている。さすなべ落に 架けられていた石橋に関するものだろう。 |
(4)奈良中学校の付近 (上流から) 熊谷市上奈良 写真(3)から900m下流。この付近は荒川の扇状地であり、 標高は30m程度だが、さすなべ落の周辺には旧河川敷を 髣髴とさせる地形が展開している。古代の荒川の氾濫原跡である。 さすなべ落の両岸から100m程離れた縁部は、段丘崖のような 高台となっていて、屋敷林に守られた民家が立ち並ぶ。 奈良中学校の北500mに位置する奈良神社は、延喜式内社 (延喜式神明帳に記載された古社)で幡羅郡の総鎮守(注3)。 奈良中学校の西の東光寺の付近には、水に関する信仰である、 巳待供養塔が祀られている。 |
(5)国道407号の付近 (下流から) 右岸:熊谷市代、左岸:熊谷市奈良新田 写真(4)から700m下流。川幅は約2.7m。右岸へ 玉井堰用水の流末である玉井堀、中条堀が合流する。 合流地点の上流には大里郡代村、講中八人と記された、 道標(めぬま、くまがや、ふかや)が残っている。 |
(6)中条第四揚水機場の付近 (上流から) 熊谷市今井 写真(5)から1.8Km下流。左岸に揚水機場があり、 下流には農業用水の取水堰(ゲート3門)が設けられている。 この付近から通水断面は台形となり、護岸は張りブロックへ 変わる。さすなべ落の流域には規模は小さいが、 広葉樹の雑木林が点在している。 |
(注2)熊谷市の市域を流れる農業用水路は、概ね川本町の境界付近から
始まり、北東の方向へ向かって流れている。これは、この付近の地形が
扇状地の扇端に相当し、等高線が北東へ向かって同心円を描いているからである。
つまり、農業用水路は最も簡単に用水を流せる方向へ延びている。
これらの用水路は水が流れたことの無い土地に、新規に開削したものではない。
元々は荒川の乱流跡の故道(旧流路など)であり、それらを用水路へと改修したのである。
用水路に挟まれた土地には小島、久保島、新島、原島、などの地名が付けられている。
島が付く地名は文字通り、島状の微高地であり、往古の荒川が氾濫した時には、
そこだけが島のように浮かんで見えたのだろう。この微高地も荒川が氾濫するたびに
土砂を堆積させ、その結果として形成された自然堤防だと思われる。
一方で広瀬や石原という地名は河川敷を表していて、荒川の旧流路跡である。
地名には荒川の流路変遷の歴史が刻み込まれている。
(注3)幡羅郡(はたらぐん)とは、律令制時代から存在した郡であり、郡域は現在の妻沼町、
熊谷市の一部(4村)、深谷市の一部(2村)に跨ってはいたが、面積的には小さな郡だった。
しかし、延喜式内社が4社も存在していたことから、律令国家にとって重要な役割が
あったのだと思われる。延喜式内社に比定されているのは、白髪神社(妻沼町妻沼)、
田中神社(熊谷市三ヶ尻)、楡山(深谷市原郷)、奈良神社である。
幡羅郡は明治29年(1896)に榛沢郡、男衾郡と共に大里郡へ編入された。
なお、新編武蔵風土記稿風土記稿(11巻、p.221)の幡羅郡中奈良村には
奈良神社の末社として、金山社が記述されている。金山(権現)社は、
金山彦命を祀ったもので、金属精錬に従事した人々の信仰を集めた。
幡羅郡から輩出した中世武士と、その経済的・軍事的基盤としての
金属精錬との関連性が興味深い。