川俣事件 勃発の地
場所:群馬県邑楽郡明和町川俣558番地 1900年2月13日、足尾銅山の操業停止を求める 渡良瀬川流域の農民、およそ2500名は邑楽郡 渡良瀬町(現.館林市)に集結した。 東京への第4回押し出し(請願)を決行するためである。 利根川の川俣の渡し(現.昭和橋下流200m付近)へ 向かう途中、佐貫村(現.明和町)川俣の上宿橋 (現.邑楽用水路)にさしかかったところで、 待ちうけていた300余名の警官・憲兵隊と衝突し、 多くの犠牲者を出した。これが、川俣事件である。 当時の佐貫村長や村民は、負傷した農民を 近くの寺、真如院で手厚く介護したということである。 この事件に対する政府の措置に失望した田中正造は、 衆議院議員を辞職し、天皇への直訴を敢行した。 以後、足尾銅山の鉱毒問題は、谷中村(現.廃村)の 渡良瀬遊水地化反対闘争へ進展してゆくことになる。 |
↑川俣事件記念碑 2000年2月13日建立(事件発生から100年後) [川俣事件記念碑を建てる町民の会]が主体となり、 寄付金を集めて建設したもの。 |
↑川俣事件衝突の地 - 明和町指定史跡 明和町教育委員会による碑。 邑楽用水路の右岸に設置されている。 |
↑記念碑の裏側 町民の会および協賛者名が彫られてている。 |
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