東武伊勢崎線の煉瓦構造物_ | 本ページの画像は、NIKON COOLPIX 995(334万画素)で撮影しました。 |
東武鉄道伊勢崎線の利根川橋梁付近では、煉瓦造りの鉄道構造物が数多く見られる。
この付近は利根川をはさんで、右岸が埼玉県羽生市、左岸が群馬県明和町である。
東武伊勢崎線は明治36年(1903)、加須-川俣間の開通で埼玉県内を全通する。
しかし当時は川俣(現.埼玉県羽生市本川俣)が終着で、そこには暫定的に川俣駅(現在は廃駅)が
設けられていたという。利根川を渡って群馬県へ行く手段は渡船のみであった。
武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、上川俣村に竜蔵渡(川岸道)、本川俣村に
長宮渡(羽生道)が設けられていた。いずれも渡船が一艘の小規模な私渡であった。
東武伊勢崎線が利根川を越えて、群馬県の川俣駅から足利駅までの路線が開通するのは
明治40年(1907)、終点の伊勢崎市に達するのは明治43年(1910)である。
利根川の周辺に残る、以下の煉瓦構造物群は、その前後に建設されたものであろう。
鉄道路線が大河川を渡りきれないために、その手前に仮の終着駅が設けられたという川俣駅の状況は、
大正3年(1914)に東上鉄道(現.東武東上線)が池袋から川越まで開通した時の終着駅、田面沢駅と
非常によく似ている。田面沢駅は入間川の右岸堤防付近に設けられていたが、廃止されて現在は形跡もない。
なお、川俣駅は小説の舞台となっている。田山花袋が大正8年に発表した「再び草の野に」は、
羽生市にあった川俣駅(H町のKM駅として登場する)が廃止され、周辺が凋落するまでを描いた作品。
鉄橋(利根川橋梁)工事の進捗や鉄道建設を当て込んで俄かに建設された煉瓦工場の様子などが、
当時の世相と利根川周辺の自然風景を織り成して、詩情豊かに描写されている。
埼玉県羽生市本川俣 トンネル1基、鉄道橋2基 |
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↑トンネル 利根川の右岸堤防から200m南側に位置する。 東武伊勢崎線の軌道盛土を横断する歩行者専用道。 一般にはトンネルで通用するが、鉄道施設としては 跨道橋やカルバートと呼ぶのが正しいのだろう(たぶん) アーチ部は煉瓦小口縦で4重に巻き立てられている。 (内空高2.4m、幅2.4m、延長7.3m、焼過煉瓦を使用) 東武伊勢崎線の複線化に伴い盛土が拡幅されたため、 反対側は煉瓦ではなく、コンクリート巻き立てのトンネル。 擁壁の石積みは、花崗岩?の谷積み(空積み) |
↑鉄道橋 トンネルから150m南側にある。 橋台の幅は4.8m。 |
複線化に伴い、軌道盛土の拡幅と 嵩上げが行なわれ、桁はコンクリートに 改造されている。現在は土留め壁の 機能しか有していないが、 煉瓦造りの重厚な橋台は現存。 橋台のコーナーには隅石、天端には 桁を支承していた2つの床石が残っている。 床石の中心間の長さは1.1mと小さい。 桁は鋼プレートガーダーだったと思われる。 石材は花崗岩のようで、表面の仕上げは、 こぶ出し。隅石は30cm角、長さ60cm。 煉瓦の目地幅は11mmとゆったりしている。 使われている煉瓦の平均実測寸法は、 218×101×55mm。小口面が小ぶりなので、 これは並形の煉瓦であろう。 煉瓦には刻印や機械成形の跡は 確認できないが、形状と質感の良い 煉瓦なので、製造元は地元、深谷市の 日本煉瓦製造だと思われる。 同社は東武鉄道と関係が深かった。 「再び草の野に」には、現場に窯を 設けて煉瓦を焼く様子なども 描かれている。トンネルに 使われている焼過煉瓦は 現場で焼きあげたものなのだろうか? |
群馬県邑楽郡明和町梅原 トンネル1基、鉄道橋2基 |
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↑トンネル 利根川の左岸堤防から 100m北側に位置する。 建設当初からは軌道盛土の 高さは2倍以上も嵩上げされて いる。上部の改修部分には 煉瓦(タイル)が貼られている。 内空高3.0m、延長10.5m |
↑お出迎えのワンちゃん? 煉瓦組みは側壁がイギリス積み、 ヴォールト(アーチ)は小口積み。 (内部から眺めると長手積み) 煉瓦の目地は平目地である。 このトンネルは車幅制限2.0mで あるが、車輌も通行できる。 |
↑鉄道橋 トンネルから200m北側に位置する。建設されたのは 明治40年(1907)頃であろう。桁はコンクリートへと改修されているが、 煉瓦造りの橋台は現存。反対側(下り線)の橋台は煉瓦造りではなく、 コンクリート造(複線化のさいに作られたものだろう)。 擁壁の石積みは花崗岩の谷積み(空積み)である。この地点から西へ 1Km(写真の奥方向)には、川俣事件の勃発地(1900年)がある。 足尾鉱山の鉱毒問題を陳情するために、東京へ向かう農民団は 利根川の左岸堤防に集結したのである。当時、群馬県から 東京へ行くさいの始発駅は、埼玉県側の川俣駅であった。 この周辺は小説だけでなく、歴史の舞台でもある。 |