上武大橋 (その1) (その2)
場所:利根川、県道14号線、左岸:群馬県佐波郡境町平塚、右岸:埼玉県深谷市中瀬
形式:下路トラス橋(24スパン:左岸から鋼桁5連+曲弦ワーレントラス10連+鋼桁9連、鋼桁はゲルバー桁)
建設:昭和9年(1934)4月 長さ895m(主径間のトラスはスパン長52.1m、幅5.5m)
上武大橋の架かる県道14号伊勢崎-深谷線は、かつては北越街道と呼ばれ(後に十二号国道)、
左岸の平塚村(現.境町平塚)と右岸の中瀬村(現.深谷市中瀬)は交通の要所であった。
平塚村の東隣(上武大橋の北1Km)には、徳川家発祥の地である世良田(新田郡尾島町)と
徳川の東照宮もひかえる。しかし、明治時代になっても利根川には橋が架けられず、対岸との
往来は渡しに頼っていた。財政が逼迫していた明治政府は架橋には不熱心で、専ら民間に船橋や
渡しの設置を期待し推奨していたのである。この中瀬の渡し(中瀬河岸)(注1)は中瀬村川岸と尾島町徳川の
間に設けられていたようで、鎌倉街道と繋がっていた(深谷市新戒に旧鎌倉街道の碑が残っている)(注2)。
中瀬の渡しは廃止されてしまったが、上武大橋の上流1.4Kmには島村の渡しが現存する。
明治16年(1883)2月に、明治架橋会社(民間の有志が結成)が募金を募って建設した木の橋が、
初代の上武大橋である。竣工記念碑である修河架橋記念碑(明治21年建立、題字は伊東南堂)が
不動堂の境内(上武大橋から上流へ100mの右岸堤防の裾)に残っている。
碑文によると、架橋工事は明治15年10月に起工し翌年2月に竣工、2月14日には祝典が催されている。
なお、初代の上武大橋の略図は埼玉県立文書館に保管されている(埼玉県行政文書 明1736-6、15)。
初代の上武大橋は木の橋だったので、利根川の洪水で頻繁に破壊されたようだが、
修復を繰り返して昭和初期まで維持されたようである。
現在の上武大橋は木の橋から2代目のもので、昭和6年に工事を着工し、昭和9年4月に竣工した。
橋の形式は主径間がトラス、側径間がプレートガーダーの鋼橋であり、これは上流側で
昭和6年(1931)6月に竣工した坂東大橋(本庄市〜伊勢崎市)とほぼ同じである。
工期が比較的長かったのは、財政難と失業者救済事業優先のあおりを受けたからだが、
昭和6年9月21日に発生した西埼玉地震(マグニチュード6.9)の影響も大きかったと思われる。
施工中、上武大橋は中瀬橋(埼玉県側の地名)と呼ばれていた。
なお、大里郡中瀬村の道路元標が今も中瀬の渡しの跡地付近に残っている。
![]() ↑上武大橋 (右岸下流から) 直上流の左岸には広瀬川が合流し、河道には広大な 洲が発達している。河床の堆積物は砂礫と砂が半々。 上武大橋の夕景と月見草は深谷八景に選ばれている。 それにしても、10連のワーレントラスは壮観である。 橋詰めには、建設当初からの巨大な親柱も現存する。 |
![]() ↑ゲルバー桁 (右岸上流から) 側径間のプレートガーダーは、左右岸ともにゲルバー桁。 ゲルバー桁という名称は、考案者のドイツ人ゲルバーに由来する。 スパン長を長くしても、桁厚を薄くできるのが利点。 ゲルバー桁は、連続桁(写真左)と吊桁(写真右)で構成され、 連続桁の部分は片持ち梁となっている。 |
![]() ↑主径間のトラス(右岸下流から) 垂直材付きの曲弦ワーレントラス。 橋脚はコンクリート製(断面は小判形) 上武大橋は戦車が渡れるように鉄橋にしたとも伝えられる。 左岸の群馬県太田市には、中島飛行機の工場があった。 太平洋戦争中、陸軍の呑龍は、この工場で製造された。 |
![]() ↑側道橋と上武大橋 (右岸から) 上武大橋は今となっては、非常に狭い2車線。 上流には側道橋(歩行者専用)が設けられている。 交通渋滞緩和のために、下流3.6Kmに新上武大橋 (国道17号バイパス)が架けられたが、相変わらず 上武大橋の交通量は多い。 |
(注1)中瀬の渡しは、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
榛沢郡中瀬村(10巻、p.6)に以下のように記されている。
”中瀬渡:北越街道に属す 村の西方十七町三十九間 利根川の上流にあり 渡船二艘 官渡”
船2艘の内訳は人渡1艘、馬渡1艘だったようである。馬渡では馬が乗れるように
改造された船が使われ、人渡に比べて大型船だった。
なお、中瀬村には中瀬の渡しの下流にも渡しが設けられていた。
前掲書には、下の渡しと記録されている。中瀬河岸の付近だったと思われる。
”下の渡:村の北方三町 利根川の下流にあり 渡船二艘 官渡”
両渡し共に重要度の高い街道に設けられていたので、私渡(民間)ではなく官渡(県営)である。
利根川の周辺には、中瀬への行き先を示した江戸時代の道標(道しるべ)が数多く残っている。
(注2)これは鎌倉街道の脇往還である深谷道のことであろう。
深谷道の路線は榛沢郡と大里郡の郡界を辿っていたようである。
なお、深谷道の周辺には古い火の見櫓が非常に多く残っている。
(参考文献) 日本の近代土木遺産、土木学会、丸善、2001(→日本の近代土木遺産のオンライン改訂版)
深谷市史 追補編、深谷市史へんさん会、1980
埼玉県写真集 上巻、図書刊行会、1978