利根川 (上武大橋〜新上武大橋の付近)  [利根川のページ一覧

 左岸:群馬県佐波郡境町、新田郡尾島町、右岸:埼玉県深谷市、大里郡妻沼町

 (注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 5000 (500万画素)で撮影しました。

 広瀬川の合流
↑広瀬川の合流(上武大橋の上から) 境町平塚
 下流から撮影。上武大橋の上流左岸へ広瀬川が
 合流している。この付近はかつては、利根川が激しく
 乱流していたようで、今も県境も複雑だ。江戸時代を通じて
 武蔵国と上野国との間では国境に対する紛争が続いていた。
 現在でも上武大橋の上流右岸(埼玉県側)は群馬県の
 境町であり、民家もある。左岸と右岸を結ぶために、
 渡船(
島村の渡し)が残っている。なお、上武大橋の
 下流左岸では群馬県が利根川から工業用水を取水している
   上武大橋の付近
  ↑
上武大橋の付近(右岸下流から) 深谷市中瀬
   旧榛沢郡中瀬村には2個所に渡しが設けられていた(注1)
   利根川の近代改修に伴い、この付近の農地は河川敷内に
   組み込まれたが、農地の耕作権は認められている。
   河川敷の中には畑地が広がり、ネギが植えられている。
   これが深谷がネギの生産量日本一を誇る理由(笑)。もっともネギは
   野菜の中では水害に強い方だというから、理にはかなっている。
   砂を多く含む深谷の土は、ネギの栽培に最適なのだという。
   利根川の土はネギだけでなく、煉瓦にも形を変え、
   日本全土に分布している。→
レンガのまち・深谷

 新上武大橋の付近
新上武大橋の付近(右岸から) 尾島町前小屋
 利根川の右岸側であるが、この付近も群馬県。
 新田郡尾島町である。昭和初期まで前小屋地区は小山川が
 利根川に合流する下流側、利根川の右岸に位置していたが、
 両河川の改修によって、現在のように小山川の左岸側に
 なってしまった。前小屋地区の中心部を小山川の導流堤が
 貫いている。左岸側の徳川、大舘地区には几号と群馬縣が
 刻字された古い仕様の
測量用水準基標が残っている。
 かつての小山川の利根川への合流地点、深谷市高島の
 付近は舟運が盛んであり、高島河岸(船着場と荷降場)が
 あった。また、上武大橋から新上武大橋までの区間には
 水車船という珍しい形式の水車が設置されていた。(注2)

   
江原堤の跡
  ↑江原堤の跡(右岸から) 深谷市江原
   新上武大橋の下流右岸、深緑苑(老人ホーム)の東側400mの
   地点に残っている。写真奥が利根川(小山川)の右岸堤防、
   右端の祠は地蔵堂。江原堤は利根川の旧堤防だったが、
   現在は農道として使われている。本堤である善ケ島堤に対して、
   堤内側からすり付く控堤(二線堤)であり、平面形状は漏斗状。
   つまり霞堤であり、江原堤の上流側は遊水地だったようだ。
   江原堤の跡は約200mが残っていて、上下流の比高差は
   約1mある。江原堤の下流側は妻沼町だが、江原堤自体は
   村境には設けられていない。江原堤は下流の雉子尾堤、
   中条堤と同様に利根川右岸の論所堤だった(→
論所堤と定杭)。
   なお、県道45号線脇の摩利支天堂の付近には、
   戦国時代に荏原氏の館があった(注3)

  
論所堤の御定杭
 ↑論所堤の御定杭 深谷市江原
  江原堤の中間地点、地蔵堂の脇に残されている。
  堤の高さが勝手に変更されないように設けられたもので、
  上下流の村の同意のもとに、堤防の基準高を規定した。
  定杭一番、文久子成年(1862)と記されている。
  妻沼町誌のp.210には4基の定杭が建てられたとある。
  定杭の脇にある花崗岩製の標石は測量の基準点。
  頂部には半球体、埼玉と
几号らしき刻字が確認できる。
 100m北には、明治期に設置された
小三角点も残っている。

   小山川の合流

  ↑小山川の合流(右岸から) 妻沼町間々田
   かつて
小山川は新上武大橋(深谷市高島〜石塚)の付近で
   利根川に合流していたが、洪水時には利根川からの逆流を
   もろに受けるので、昭和初期に合流地点が約3Km下流へ
   移された。合流地点の小山川の河床高を下げ、利根川の
   洪水流からの影響を低減させるためである。
   現在は新上武大橋の下流付近からは、約1.8Kmに渡って
   小山川の導流堤(背割堤)が設けられている。
   対岸では早川が利根川へ合流している。

(注1)このページの区間には、少なくとも7箇所に渡しが存在した。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、
 榛沢郡中瀬村(10巻、p.6)
  ”中瀬渡:北越街道に属す
 村の西方十七町三十九間 利根川の上流にあり 渡船二艘 官渡”
  ”下の渡:村の北方三町 利根川の下流にあり 渡船二艘 官渡”
  なお、中瀬村には中瀬河岸があったため、大型船や荷車の数が多かった。
  高瀬舟18艘、艀舟(はしけ)38艘、漁舟6艘、水車舟2艘、耕作舟4艘、伝馬船7艘、荷車88輌である。
  深谷市中瀬の県道には、江戸時代に建てられた二十二夜塔と庚申塔があるが、
  これらには
渡し場への道標(道しるべ)が刻まれている。おそらく中瀬の渡しだろう。
 榛沢郡高島村(10巻、p.2)
  ”高島渡:上野国新田郡への通路に属す
 村より七町三十間北方 利根川の下流にあり 渡船二艘 官渡”
  高島村には高島河岸があったため、大型船や荷車の数が多かった。
  高瀬舟1艘、舫舟(もやい)29艘、水車舟3艘、荷車23輌である。戸数は125戸。
 旛羅郡江原村(10巻、p.234)
  ”渡:利根川の下流にあり
 渡船二艘 私渡”
 旛羅郡間々田村(10巻、p.236)
  ”渡:野道に属す
 村の北方 利根川の上流にあり 渡船一艘 私渡”
  間々田村にはこの他に、利根川の中流と下流にも渡しがあったと記録されている。
 重要度の高い街道に設けられた渡しは、私渡(民間または個人運営)ではなく
 官渡(県営)だった。間々田村には3箇所に渡しがあったが、これらは
 流作場(河川敷内の農地)での農作業用の作場渡しだった可能性が高い。

(注2)水車船(船水車、船車)とは、船の側面に水車を据え付け、船の上に
 石臼を設けた移動可能な製粉施設(精米、粉引き)である。
 通常、水車船は河床に固定されているが、川が増水した時には
 船を安全な場所へ移動あるいは陸に上げることで、流出・損壊を防ぐことができた。
 利根川の右岸の榛沢郡中瀬村、高島村、旛羅郡石塚村に設置されていた。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)には、高島村に3艘、中瀬村に2艘、
 石塚村に5艘と記録されている。ただし、水車船は利根川水系に特有というわけではなく、
 荒川水系には実に55艘も存在していた記録がある。→
荒川水系の水車船
 不思議なことに水車船が設置されたのは、利根川・荒川共に大里郡に集中していて、
 それも明治29年に大里郡へ編入される男衾郡、榛沢郡、旛羅郡に限られていた。

(注3)摩利支天堂には明治17年(1884)建立の芭蕉の句碑もある。
 なぜか深谷市には芭蕉の句碑が多く、10基も存在している。
 例えば、小山川・利根川の沿線には明戸の地蔵堂、宮ヶ谷戸の住吉神社に2基、
 原郷の楡山神社付近に明治28年(1895)建立の句碑、
 中瀬の吉祥院に天保十二年(1841)建立の句碑がある。→
利根川沿線の芭蕉句碑


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