大落古利根川 (古隅田川の合流から東武野田線まで)  [大落古利根川のページ一覧

 撮影地:埼玉県春日部市

 古隅田川の合流
(1)古隅田川の合流と新町橋 (上流右岸から)
 春日部市梅田一丁目〜粕壁三丁目
 春日部駅から北へ400mの地点。新町橋の上流100mでは
 右岸へ
古隅田川(一級河川)が合流している。
 写真の手前が古隅田川。古隅田川は古い時代(中世以前)
 には利根川の本流であり、春日部市小渕から南流し、
 岩槻市長宮で
元荒川(かつての荒川)と合流していた。
 当時の古利根川は小渕で、古隅田川から分かれていて、
 いわば利根川の派川だった。その傍証として中世以前の
 武蔵国と下総国の国境は大落古利根川ではなく、
 古隅田川だった。現在の古隅田川は市街地をひっそりと
 流れる細流だが、両岸には岩槻市までの広範囲に
 旧堤防が残っている。自然堤防に嵩上げや腹付けが
 なされ、近年まで新方領の水害を防ぐための堤防として
 利用された(
新方領囲堤)。
   古利根公園橋と大落古利根川
  (2)古利根公園橋と大落古利根川 (上流から)
   左岸:春日部市八丁目、右岸:春日部市粕壁二丁目
   写真(1)から200m下流、新町橋の上から撮影。
   この付近が春日部市の中心部である。現在は春日部市街と
   対岸の八丁目を結ぶ数多くの橋が架かっているが、
   江戸時代までは新町橋が唯一の橋だった(注1)
   古利根公園橋(県道400号線)は国道16号バイパスと
   春日部駅を結ぶ道路橋。全長は約80mで平面的な
   形態はループ橋となっていて、橋上公園を兼ねている。
   橋の左岸側には千住馬車鉄道(明治26年に開通し、
   粕壁と千住を結んだ)のレリーフが飾られている。
   古利根公園橋の右岸橋詰には、昭和5年建立の境界杭
   (大落堀悪水路組合と葛西用水路組合)が残っている。
   悪水(排水)と用水の管理境界を示すものだ。古利根公園橋の
   上流までの区間、古利根川は大落堀と呼ばれていた。

 春日橋と河岸場
(3)春日橋と河岸場 (右岸から)
 右岸:春日部市粕壁東二丁目、左岸:春日部市八丁目
 古利根公園橋から200m下流に架かるのが
春日橋
 かなり古い橋であり幅員が狭いため、現在は車輌の通行が
 規制され、歩行者専用となっている。春日橋の右岸橋詰に
 鎮座する碇神社のイヌグス(タブノキ)は樹齢600年とされ、
 埼玉県天然記念物となっている。かつて粕壁宿では
 桐箪笥の製造や舟運が盛んだった。新町橋の袂に
 上喜蔵河岸、春日橋の右岸に下喜蔵河岸があり、
 古利根川には荷船が往来していた(注2)
 河岸場名の喜蔵は、春日部市史
 民俗編、p.315によれば、
 江戸時代中期の名主、見川喜蔵と関係が深いとされて
 いる。喜蔵は奇特者であるとして名字帯刀を許されている。

   階段護岸と旧倉松川の合流
  (4)階段護岸と旧倉松川の合流 (右岸上流から)
   右岸:春日部市粕壁東二丁目、左岸:春日部市樋堀
   写真(3)から500m下流、埼葛橋(国道4号線)と八幡橋
   (県道10号線)の間の区間。古利根川には大きな州が
   形成されていて、数100m毎に河川敷が見られる。
   そのような箇所には階段状の親水護岸が設けられていて、
   水辺へ近づける。左岸では
旧倉松落が古利根川へ
   合流しているが、付近に架かる、
めがね橋は明治24年
   (1891)竣工の煉瓦造4連アーチ橋だ。本来は古利根川から
   旧倉松落へ洪水が流入するのを防ぐための水門だった。
   現在、国道16号線に沿った地下には古利根川の
   洪水対策として、首都圏外郭放水路(古利根川と
   江戸川を結ぶ水路トンネル)を建設中だ。

 粕壁ポンプ場の付近
(5)粕壁ポンプ場の付近 (下流から)
 右岸:春日部市粕壁東六丁目、左岸:春日部市牛島
 写真(4)から700m下流。春日部の市街地では古利根川には
 堤防は見られないが、粕壁ポンプ場の付近では約300mに
 渡って、右岸側に堤防が見られる。規模は小さく、天端幅は
 2.7m、比高は約1mだ。これは喜蔵堤の跡だろうか(注3)
 右岸堤防には粕壁ポンプ場の排水樋門が
 伏せ込まれている。

   東武野田線の付近

  (6)東武野田線の付近 (下流から)
   右岸:春日部市緑町二丁目、左岸:春日部市牛島
   写真(5)から400m下流。牛島人道橋の下流に架かるのが
   東武野田線の
古利根川橋梁。野田線の前身である総武鉄道は
   昭和5年(1930)8月に粕壁〜清水公園間が開通している。
   古利根川橋梁の下流から、ゆりのき橋までの約700mの区間、
   古利根川の両岸は緑地や親水公園へ整備されている。
   右岸が川久保公園、左岸が藤塚三本木公園だ。

(注1)新町橋は江戸時代は大橋と呼ばれていた。明治9年の調査を基に編纂された、
 武蔵国郡村誌の埼玉郡粕壁宿(11巻、p.221)に当時の橋の記述がある。
 大橋:”陸羽街道に属し宿の北方
 古利根川の中流に架す 長十六間巾三間 木製”
 陸羽街道とは日光道中(日光街道)のことである。新町橋を渡ると日光街道で
 4番目の宿場町、粕壁宿に入った。新町橋の左岸橋詰から北へ500m、
 県道319号線の交差点には、日光道中の道標と一里塚跡がある。
 前掲書には古利根川の当時の川幅について、”広処三十五間
 狭処十六間”と
 あるので、大橋は川幅が狭い所(約29m)を選んで架けられたといえる。

 なお、新町橋から下流へ1Kmの地点に架かる八幡橋は、江戸時代は、
 八幡の渡しと呼ばれる渡船だった。橋が架けられたのは明治9年であり、
 粕壁宿の金子市兵衛ら4名が私費を投じて、長さ二十二間(約40m)の
 木の橋を架けた。この橋は建設費を回収するために、最初の10年間は
 賃取(有料)だった(前掲書、11巻、p.221)。
 八幡橋という名称は右岸に八幡社(東八幡神社)が鎮座することに由来する。
 境内には大杉神社、弁天社、雷電神社、浅間神社などの小社がある。

(注2)明治初期の時点でも、粕壁宿の河岸場はそこそこの規模を
 維持していたようで、武蔵国郡村誌には荷船7艘(八十石積
 3艘、
 四十石積
 4艘)と記録されている。
 なお、春日部市域の古利根川は葛西用水の送水路として
 使われているために、かんがい期の水量は豊富だが、
 非かんがい期には水量が激減する。そのため、9月から翌年の5月までは
 舟運は事実上、休止となっていたようだ。春日部市史
 通史編I、p.705によれば、
 非かんがい期の米の津出し(年貢米の輸送)は、陸路を利用して、
 江戸川の金野井河岸(旧庄和町)まで運ばれ、そこから江戸へ送られていたという。

(注3)武蔵国郡村誌の埼玉郡粕壁宿に、喜蔵堤が記録されている。
 ”喜蔵堤:古利根川に沿ひ宿の東方字土井より備後村界に至る
 長五百間
 馬踏五尺 堤敷二間 修繕費用は民に属す”
 長さが約900m、堤防天端幅が1.5mの小規模な堤防である。
 堤防の名称は見川喜蔵が私費を投じて築いたことに由来するのだろうか。
 新編武蔵風土記稿の粕壁宿(10巻、p.189)によれば、荒廃した古隅田川の
 堤防(江曾堤)を修築したのも喜蔵であり、その部分は喜蔵堤と呼ばれていた。
 なお、明治13年の迅速測図 粕壁駅にも喜蔵堤らしき跡が見られる。


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