倉松川 (その1) (その2)(その3)(その4) [倉松川のページ一覧]
撮影地:埼玉県幸手市
倉松川は延長13.8Km、流域面積32.1Km2の中川水系の一級河川。
幸手市中五丁目を管理起点とし、幸手市の市街地を南東に向かって流れ、幸手市天神島では
流路を大きく南へと変える。杉戸町に入ってからは東側を流れる安戸落に並行して、
ほぼ南へ向かって流れ、最後は春日部市牛島で倉松川水門を経由して、中川の右岸へ合流する。
なお、倉松川の源流(上流端)である大中落(旧上郷10ヶ村落)の区間(約5Km)、
幸手市内で倉松川へ合流する中落(旧上郷中落)は共に準用河川に指定されている。
倉松川の周辺は都市化の進行に伴って、洪水の流出特性が大きく変化している。
そのため既存の通水断面では洪水の流下能力が不足し、周辺部の浸水被害が顕著だという。
平成18年6月に春日部市に首都圏外郭放水路が完成したので、倉松川の洪水の一部は
大落古利根川や中川と共に、江戸川へと通水されることになった。
これで浸水被害は軽減されることだろう。なお、倉松川は幸手橋(幸手市東二丁目)から
中川への合流までの区間が、総合治水対策特定河川事業(埼玉県)の対象となっている。
倉松川の改修の歴史:
武蔵国郡村誌の葛飾郡不動院野村(14巻、p.312)には、倉松落は万治二年(1659)に安戸落と
共に掘られたとある。これは葛西用水の開発と時期的にほぼ合致する。安定した用水源が
確保されたことで排水量も増大するので、葛西用水の開発に伴い、幸手領の排水路として
両落しが同時に整備されたのだろう。万治二年の開削とあるが、それは今までまったく水が
流れたことがない土地に、新規に排水路を掘ったのではなく、既存の水路を整備し直したのだろう。
用排水の整備が完了したことによって、幸手領の新田開発は急速に進んだと思われる。
例えば前掲書によると、不動院野村は元和二年(1682)開発の新田村である。
倉松川は歴史的には、幸手領(葛西用水のかんがい区域)の落し(農業排水路)であるが、
葛西用水の開発とは別に様々な改良が施されてきた。
幸手市の区間は志手沼の干拓などを目的として開削されている。幸手市の区間は
支川の上郷中落(現在の中落)に対して、上郷大落と呼ばれていたこともある(注1)。
杉戸町から下流の区間は、かつては南付廻堀(江戸時代の大島新田の開発に関連した排水路)であった。
南付廻堀(注2)は改修されて、倉松落と呼ばれるようになったが、これは北葛飾郡倉松村から
起こる落(おとし)に由来すると思われる。倉松村は明治22年(1889)の市制・町村制施行によって、
杉戸町と合併して消滅してしまったが、現在も大島新田の南側には倉松という地区名が残っている。
なお、春日部市の区間は、昭和8年から昭和15年(1940)にかけて開削された新水路であり、
新倉松川とも呼ばれる。旧倉松川と新倉松川との分岐地点(杉戸町本郷~春日部市不動院野)に
その改修工事の竣工記念碑が建てられている。それまで倉松落の排水先は大落古利根川
(春日部市八丁目)だったが、排水不良が顕著だったので、流路変更を伴う大規模な改修工事が
実施され、排水先が現在の中川(春日部市牛島)へと改められた。古利根川は葛西用水の
送水路でもあるので、かんがい期になると河川の水位が高くなり、支川は排水が困難だったからである。
葛西用水の排水路でありながら、葛西用水の存在によって、倉松川が排水不良に陥るという、
水利体系の矛盾が解決された。
なお、旧倉松落が大落古利根川へ合流する付近には、明治24年(1891)竣工の煉瓦樋門:
倉松落大口逆除が現存している。古利根川から旧倉松落へ洪水が逆流するのを
防いでいた水門だが、現在はその役目を終え、道路橋(めがね橋)となっている。
最初の倉松落大口逆除が建設されたのは万延元年(1860)であり、意外に近年のことである。
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![]() (2)住宅地を流れる大中落 (下流から) 幸手市中五丁目 写真(1)から900m下流。中五丁目に入ってからは、 それまでの典型的な農業排水路の景観は激変する。 大中落の右岸側の護岸は石積みに変わり、擬木調の (コンクリート製だが)古風な橋(牛村橋)まで架かっている。 右岸には広大な敷地を誇る、白壁のお屋敷が 位置しているが、意外なことに病院であった。 |
![]() (3)倉松川の管理起点付近 (上流から) 幸手市中五丁目 写真(2)から200m下流。堀合橋(県道153号線)から 50m上流の右岸に[準用河川 倉松川起点]の標石が 設けられている。一級河川の管理起点もこの付近である。 写真の手前には、橋台のような物(コンクリート製)が 見えるが、それには角落しの溝が設けられている。 堰柱か橋脚があったはずだが、現在は撤去されている。 これはおそらく、堰の遺構だと思われる。堰の設置目的が 水量調節なのか農業用水の取水なのかは不明である。 |
![]() (4)中落が合流 (下流から) 幸手市南三丁目 写真(3)から200m下流。倉松川は堀合橋から下流の区間は 川幅が広がり、東武鉄道の日光線と並行して流れている。 幸手駅(写真の右端)の南側では、右岸へ中落が合流する。 中落も鷲宮町から流れて来る農業排水路。中落の最下流端の 川幅は約5m、倉松川への合流地点には樋門はなく、自然合流と なっている。なお、幸手駅の付近は戦国時代の幸手城の跡地に 比定されているという。駅前には東武鉄道日光線開通記念碑 (昭和7年、根津嘉一郎書)が建っている。 |
![]() (5)志手橋(して)の付近 (下流から) 左岸:幸手市南一丁目、右岸:中二丁目 写真(4)から600m下流。倉松川は東武鉄道日光線を 不自然に横断してから(流路は直角である)、川幅が 約9mへ広がり、流れは南東へと向かう。 志手橋は国道4号線(日光街道)の旧道に架かる。 日光街道の幸手宿への入口という古い歴史を持つ橋だ。 日光御成道と日光街道の追分に架かる橋でもある。 現橋はコンクリート製だが、古い橋であり、竣工は 昭和初期だと思われる。橋灯を備えた重厚な意匠の 親柱が特徴だ。なお、志手橋から北へ500mの 旧日光街道には幸手町の道路元標が設置されていた。 現在は幸手市役所の敷地内に展示されている。 |
![]() (6)幸手橋の付近 (上流から) 左岸:幸手市東二丁目、右岸:東一丁目 写真(5)から150m下流。国道4号線に架かるのが幸手橋。 幸手橋は志手橋ほど古い橋ではないが、銘板に記された、 河川名は倉松落でも倉松川でもなく、未だに大中落となっている。 幸手橋の下流では、総合治水対策特定河川事業に基づいて、 引堤工事(川幅の拡大)が実施されている。幸手橋の周辺の 護岸はコンクリートではなく、鉄線カゴの中に雑割石を詰め込んだもの。 堤防の法面勾配はかなり緩傾斜である。水際の部分に捨石が 施されているのは、「多自然型川づくり」の手法が取り入れられて いるからだろうか。空隙が多い材料は、動植物の生育や生息に 適し、河川環境の自己復元にも寄与する。なお、幸手橋の 右岸橋詰には宝永六年(1709)建立の石橋供養塔が残っている。 |
(注1)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
葛飾郡幸手宿(14巻、p.262)に、以下の記述がある。
”上郷大落:巾九尺乃至二間 村の西方下大崎村より来り 東方天神村に入る 長八町五間”
”上郷中落:深三尺巾九尺 村の西方千塚村より来り 南方上郷大落に合す 長三町六間”
上郷大落の中流部には巾が広い区間があり、志手沼と呼ばれていた。
これに倉松川の歴史が垣間見れる。鷲宮町の区域から流れて来る大中落が
流れ込む先が、おそらく志手沼だったのだろう。形態から志手沼は溜井(ためい)を
兼ねていたようなので、上流区域からの排水を集めて下流のかんがい用水にも
使われていたと思われる。そして、上郷大落は志手沼から流れ出す、
沼落し(兼.送水路)として開発されたのだろう。
なお、上郷大落の記述にある下大崎村は誤りで、正しくは下川崎村だと思われる。
(注2)享保年間(1730年頃)に倉松沼を干拓してできたのが大島新田。
倉松沼へ悪水が流入するを防ぐために沼の外周に沿って築堤を施し、
さらに悪水の迂回路として掘られた排水路が付廻堀(つけまわしほり)である。
付廻堀(附廻落堀)については、武蔵国郡村誌の葛飾郡大島新田(14巻、p.291)に、
”村の西方上戸村より来り 二派に分れ一は村の南境に沿ひ東南 倉松村界に至り
倉松落となり~中略~ 一は村の北境に沿ひ東方 佐左衛門村界に至り安戸落となる”とある。
大島新田として開発されるまでは、付近にはまだ倉松沼と安戸沼が存在していた。
これらの沼の落し(干拓排水路)と整備されたのが、倉松落と安戸落である。
倉松川の沿線に江戸時代の水神宮が多く祀られているのは、悪水路である倉松落が
頻繁に氾濫を繰り返していて、それを鎮めるためだろうか。
水神宮は浅間神社(幸手市北二丁目)、雷電神社(中四丁目)、
神明社(中二丁目)などに祀られている。
なお、神明社には几号水準点(きごう)が残されている。
几号水準点とは、明治初期にお雇い英人の指導で実施された全国測量の
さいに、主要街道に沿って設置されたもの。神明社の几号水準点は
日光街道の整備のさいに設置されたものだろう。