阻水エン塔 (そすい)

 所在地:比企郡吉見町南吉見、大沼(百穴湖)  建設:1904年  〜 この施設の周辺 〜

  長さ 高さ 天端幅 翼壁長 袖壁長 通水断面 ゲート その他 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
*は推定値
呑口   5*   円0.25* 3門 取水塔
吐口   2.9 刻印煉瓦

 吉見町は滑川、市野川、荒川に囲まれた輪中であり、治水だけでなく利水にも苦労した地域である。
 その水不足を補うために、吉見町には比企丘陵の谷を利用した大小の農業用溜池が数多く造られてきた。
 天保年間(1840年頃)には22の溜井(溜池)が存在していたという(→文献39、p.222
 大沼はその中でも最大規模のものであり、面積5.7ha、貯水量138,000m3、かんがい面積90haである。
 史跡:吉見の百穴に隣接することから、現在は百穴湖とも称されるが、かつては流川村の大溜井と呼ばれた。
 昭和初期には干害対策溜池改修事業(昭和8年11月起工、翌年1月竣工)が実施されている。
 東端の堤防上に設けられた竣工記念碑(昭和9年2月建立)によると、事業は浚渫が主だったようで、
 隣接する天神沼の浚渫も大沼と同時に行なわれた。

 阻水エン塔は、明治時代に大溜井に建設された農業用水の取水施設である。
 エン塔のエンはという漢字であり、[覆う、蓋]という意味。
 この施設名は謎だ。なぜ疎水ではなく阻水なのだろうか。これでは意味が反対である。
 豪雨時に堰堤からの越流を防ぐために、取水口の蓋(ゲート)を閉じる施設ということなのだろうか。
 阻水エン塔の管理は西吉見南部土地改良区によって行なわれている。
 この土地改良区は隣接する天神沼の施設管理も行なう。
 阻水エン塔で取水され、かんがいに使われた水は、南1Kmにある永府門樋(煉瓦造り、1901年)を
 経由して最終的には市野川に落ちる。
 なお、阻水エン塔を施工中の写真が東松山・比企の100年(郷土出版、1999年)のp.21に掲載されている。

 謝辞:本施設の存在は、馬場 崇さん(川越市在住)から教えていただいた。深く感謝を表したい。

 呑口の取水塔
 
 ←取水塔(呑口)
 一辺2.6m(推定)の四角形の塔で、
 壁の煉瓦は
イギリス積みで組まれている。
 表面が白っぽく見えるのは、モルタルが塗られているため。
 管理橋は後年に増設されたものだが、
 かつての管理橋の形跡も残っている。
 ゲートは縦方向に3基(φ125×2、150×1)が
 設置されている。溜池改修事業の竣工記念碑には、
 付記として明治37年の樋管改築が記されているが、
 それによると、阻水エン塔の工事主任は小池喜久三。

 現在、大沼からの取水は、写真上部の
 大沼揚水機場(白い建物)によって行なわれている。
 また写真左端には、余水吐(ゲートがない自然越流式)も
 新設されている。余水吐の傍らには、
 
水神宮(明治21年建立)が祀られている。

 吐口
↑吐口
 大沼の堤は非常に高く(5m位ある)、
 隣接する市野川の堤防と大差がない。
 管径が小さいうえに、かなりの水頭が
 あるので、水はすごい勢いで流れそうだ。
 吐口の擁壁の天端幅は2.9m。
 天端は2段の迫り出し(小口縦-長手横)。
 
上敷免製(日本煉瓦製造の深谷工場)の
 刻印煉瓦が確認できる。

    銘板
   ↑銘板  明治卅七年ニ月竣功
    施設名は横書き(隷書体)、竣功年は縦書きされている。

    送水管
   ↑送水管
    内径25cm(推定)の土管。
    管の支承は石造りの台座による。
    かんがい面積に比して、小さすぎる気もするが、
    土地改良区の話では、水量の不足はなかったという。

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