刻印煉瓦 (その1) (その2 その3 その4

 日本煉瓦製造が製造した煉瓦には、煉瓦の平の面(最も面積の大きい面)に(→注1)
 刻印(サイズは5cm×1.5cm)が付けられていた。刻印の文字は時代を経て[上敷免製]、
 [日煉]、[日本]へと変わっているが、小判型の縁取りは不変である。
 これは奇しくも、煉瓦を焼き出した窯:ホフマン式輪窯の平面形状と一致する。

刻印煉瓦(その2)
刻印煉瓦(右から上敷免製)
落合門樋(騎西町、1903年)

平の面には当時の機械抜き
成形に特有な無数のシワシワ
模様が見られる。この模様は
日本煉瓦製造が所有していた、
ドイツ製の機械が付けた跡。
  刻印煉瓦(その1)
  刻印煉瓦(左から上敷免製)
  小針落伏越(行田市〜
  川里町、1914年)

  シワシワ模様は、機械で
  自動的に煉瓦を切断するのに
  ピアノ線が使われたため。
  刻印煉瓦(その3)
  (日本、昭和期)
  矢島堰周辺(深谷市)

  この頃になると、
  シワシワは減っている
 明治期の上敷免製(じょうしきめん)とは、
 日本煉瓦製造会社の工場が誘致された
 武蔵国榛沢郡上敷免村のこと。

 日本煉瓦製造に現存する
 ホフマン輪窯は6号基であるが、
 解体された1〜5号基の煉瓦は
 大部分が廃棄され、一部は工場地内の
 地面下に埋っているそうである。
 また南側を流れる備前渠用水の中に
 沈んでいる可能性もあるとか。

←この煉瓦は長手が211mmなので、
 製造されたのは昭和期だと
 思われる。(→注2)

 明治期の日本において、煉瓦に印された[上敷免製]の刻印は、最優良ブランドの証であり、
 品質保証のマークでもあった。ただし刻印を付けられた煉瓦は、全ての煉瓦ではなく、
 納品数の1/10くらいだったそうである(それも表積用ではなく裏積:構造用の煉瓦のみ)。
 構造用の煉瓦が表に現われることは、ほとんどなく、しかも平の面は煉瓦同士の接着面である。
 また平の面が見えるような壁構造の積み方は存在しない(ただしどの積み方でも天端には平の面が表れる)。
 つまり、煉瓦構造物を観察しても通常は刻印煉瓦は発見できない。構造物を解体したさいに、
 運良く(煉瓦が割れずに)平の面が現れでもしない限りは、刻印煉瓦の有無は確認できないのである。

 ただし、以下のどれかに該当すれば、刻印煉瓦が見つかることもある。
 (1)平の面が見える装飾(天端の迫り出しやデンティル)がなされている →庄兵衛堰枠
 (2)翼壁や袖壁の端部に数個だが平の面がある(寸法合わせのため?) →奈目曽樋管矢来門樋新久保用水樋管
 (3)通常は土の中に埋設されている部位(胸壁や袖壁の裏側)が露出している →辯天門樋落合門樋笹原門樋
 (4)塔の天端のモルタルが完全に剥がれている →北河原用水元圦
 (5)破棄または解体された構造物の周辺に煉瓦が散乱している →旧・矢島堰北方用水掛渡樋宮地堰五反田堰?
 (6)煉瓦の長手や小口面に刻印がある →小針落伏越
 (7)見える箇所に意図的?に刻印煉瓦が使われている →前吐樋管前樋管小針落伏越

 埼玉県の煉瓦造り樋門には、表面に刻印煉瓦が使われているものが20基近くあるが、
 これは、東松山市の樋門建設で発覚した煉瓦詐称事件が影響しているのだろうか?

注1平の面には機械抜き独特のシワシワ模様も見られる。
   このシワシワ(縮緬状)があるために、モルタルの付着力がより
   強くなるともいわれている。(→文献20、p.387、389:煉瓦要説、諸井恒平、1902、p.19、34)。
   煉瓦樋門が最も多く建設された明治30年代までに、埼玉県の煉瓦工場で
   機械抜きの成形を行なっていたのは、日本煉瓦製造のみである。
   大正初期からは、これに
金町製瓦(金町煉瓦、大正5年に潮止村(現.八潮市)に移転)と
   
大阪窯業(東京工場、大正5年 北足立郡草加町、現.草加市 )が加わる。

注2明治35年(1902)頃の日本煉瓦製造の普通煉瓦(東京形)の寸法は、
   長さ7寸5分、巾3寸6分、厚2寸(227×109×60.6mm)である。
   大正末まで、煉瓦の寸法は規格化されておらず、1925年にJES(日本標準規格)によって、
   210×100×60mmに定められた。これは、現在のJIS規格と同じ寸法である。 →
様々な煉瓦寸法


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