永府門樋 (えいふ もんぴ)

 所在地:比企郡吉見町北吉見〜江綱、市野川用水(市野川から取水)左岸  建設:1901年

  長さ 高さ 天端幅 翼壁長 袖壁長 通水断面 ゲート その他 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
*は推定値
川表 3.3 2.6 5.2 2.9 幅2.0、高さ1.2
ニ連
観音開き×2 鋸状の装飾
川裏 2.8 戸当り

 立地状況:
 永府門樋は諏訪沼から東へ300mの地点に位置し、農業排水を市野川用水へ放流している。
 現在はゲートが撤去されているので、門樋(逆流防止水門)としての機能はないが、
 排水樋門としてはいまだ現役である。永府門樋が設置された悪水路へは、北1Kmにある大沼
 天神沼から取水し、流川耕地(市野川の左岸と県道27号、33号線に囲まれた区域)を
 かんがいした後の排水が流れ込んでいるようである。これは江戸時代からの用水系統であり、
 新編武蔵風土記稿の横見郡柚沢村(10巻、p.63)には”用水は流川村大溜井及天神溜井を
 引用す”と記されている。柚沢村とは江戸時代のこの付近の村名である。

 なお歴史的には、この付近は吉見領大囲堤の外に位置するので、堤外地ということになる。
 江戸時代の文献では、この付近の市野川の左岸は霞堤のような形態になっていて、
 周辺は遊水池であった。治水の要所だったことが伺える。霞堤とは不連続な堤防であり、
 洪水流を遊水池へと逆流させるために、堤防自体に開放部(あるいは無堤区間)が
 設けられている。洪水の一部を一時的に遊水池へ流入させ、洪水が収まってから、
 遊水池に溜まった水を本川へ排水する(つまり排水樋門の代替となりうる)。霞堤は現代の調節池に
 併設された越流堤とほぼ同じ機能を持つ。現在、市野川の左岸堤防は連続堤防になっている。
 市野川の霞堤が塞がれ、連続堤防となったのは永府門樋の建設に合わせてなのかは不明である。
 ちなみに明治17年(1884)の迅速測図(松山町)では、まだ左岸堤防は不連続であり、
 永府門樋(旧施設)の付近には開口部(堤防無し)が残っている。
 市野川の近代改修は昭和初期に実施されている。

 建設の経緯:
 永府門樋は腐朽・大破した既設の木造樋管を煉瓦造りで改築したもので、比企郡西吉見村が
 埼玉県に建設申請をして、県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て、
 西吉見村大字北吉見に建設した。
 西吉見村の中に北吉見があり、紛らわしいが、現在もこの付近では広範囲に飛び地が存在する。
 なお、大正末期に設置された西吉見村の道路元標は、今も吉見観音(安楽寺)の前に残っている。
 永府門樋の総工費は4,047円であった。当時の物価は巡査の初任給が9円、小学校教員の初任給が
 10〜13円なので(値段史年表、朝日新聞社より)、彼らの約30年分の年収に相当する。
 永府門樋と同時に市野川の左岸には、次郎坊門樋(煉瓦造り、悪水除、使用煉瓦数は
 17,000個)も建設されている(現存せず)。2基の工事工程(予定)は、明治34年2月20日に起工、
 同年3月30日に竣功となっていた(埼玉県行政文書 明2487-8)

 埼玉県で唯一の箱型ニ連樋管:
 永府門樋は見た目の大きさに反して、使用煉瓦数は約23,000個(表積:選焼過一等煉瓦 13,000個、
 裏積:一等煉瓦 10,000個)であり意外に少ない。これは門樋なので樋管長が短いことに加え、
 樋門の形式が箱型であることが、使用煉瓦数を減少させているからである。
 煉瓦が使われているのは面壁、翼壁、袖壁のみであり、壁構造はイギリス積みで組まれている。
 基礎の工法は当時一般的だった土台木である。これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、
 杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に
 捨コンクリートを打設したものである。

 永府門樋のデザインは橋を意識した端正なもので、基本構造は煉瓦造りの橋脚と橋台を
 持った石造りの桁橋である。埼玉県に現存する門樋は、本体がこの位のサイズだと、通水断面には
 アーチ型が採用されている場合が多い。永府門樋は通水断面がニ連の箱型であり、非常に珍しい。
 この形式の煉瓦樋管は埼玉県に2基しか現存しないが、もう1基の小佐衛門前伏越(吉川市、
 1910年)は完全に遺構であり、樋管の原形は残っていない。
 したがって、永府門樋は埼玉県に現存する唯一の箱型ニ連樋管である。
 また、箱型のゲート形式はスルース(引き上げ式)や角落し(はめ込み式)が多いが、
 永府門樋は観音開きのゲートである(現存では永府門樋の他には杣殿樋管小剣樋管のみ)。
 観音開きゲートが付けられた箱型樋管としては、永府門樋は埼玉県で現存最古である。

 調査に訪れた時には、永府門樋へ繋がる悪水路は改修工事中であった。
 邪魔だから永府門樋は撤去する!、なんてことにならなければよいが...
 永府門樋は子供達の格好の遊び場だったようで、煉瓦造りの欄干には悪戯書きを
 した彫り跡がたくさん残っている。100年間、子供達の遊び相手もしてきたのだ。

 追補:永府門樋は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

 永府門樋
↑永府門樋(川表:市野川用水路の右岸から)
 手前に見える段差は石造り(コンクリート?)の水たたき。
 奥の段差はゲートの戸当り(石造り。上部から眺めると
 形状は三角形)。建設当初は木製のゲート(計4枚)を
 観音開きで取り付けていた(取付金具が現存)。用水路の
 水位が上昇すると、ゲートが自動的に閉まる仕組みである。
 隅石(翼壁の入隅部)と男柱(中央の柱)も石造り(石材は
 
相州堅石)である。翼壁は、もたれ式で下端へいくほど
 厚くなっている(根積み)。
   用水路の左岸から
   ↑永府門樋(川表:市野川用水路の左岸から)
    永府門樋は橋でもあり、上を人が渡れるようになっている。
     (写真左上は現在は民家となっていて、道はないけれど)。
    橋の路面は門樋の
甲蓋(天板)に相当し、構造的には
    石材を並べた桁橋である。門樋の胸壁(面壁?)が
    橋の欄干(高さ0.6m、煉瓦造り)を兼用している。
    翼壁の先端には袖壁は設けられていない。

 川裏から

 ←川裏から

 堰柱?には、角落し用の戸当り(溝)が設けられている。
 これは川表のゲートが損壊した場合や保守点検に
 備えてであろう。昭和30年頃にはゲートは川表ではなく、
 こちら側に堰板(はめこみ式)が、付けられていたそうである。
 かんがい期には農業用水の取水のために、排水を
 堰き止めていたのだろう。

 水切り(柱の先端)は異形煉瓦を使った曲面仕上げ。
 永府門樋は
異形煉瓦や加工煉瓦の使用比率がわりと多い。
 使われている煉瓦の平均寸法は、219×106×57mm。
 平の面には
機械抜き成形の跡が確認できる。
 この煉瓦は、おそらく
日本煉瓦製造の製品であろう。
 天板(石材)の側面には竣工年が刻まれている。
 (明治三十四年五月竣工)



鋸状の装飾
 ←鋸状の装飾

 天端の下段は煉瓦の小口を斜めに並べて、
 鋸状に見えるようにした装飾が施されている。
 
鋸状の装飾が施された樋門は埼玉県には、
 5基が現存するが、永府門樋はその中で
 最も最後に建設された樋門である。
 柱の頂部にも2段に迫り出した装飾が
 施されている。(一種の笠石ともいえる)

 面壁と翼壁の間の隅石は装飾ではなく、
 ゲートの開閉による煉瓦の損傷を
 防ぐために設けられたものだろう。

 ゲートの戸当りは銘板を兼ねていて、
 右から左に向かって、
 [永府門樋]と刻まれている。
 左から右へ[樋門府永]と読んでしまった私...
 永府とは、この付近(江戸時代には
 横見郡柚沢村)の小字名だという。

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