通船の方法 (閘門の操作について)

 通船堀の配置: 代用水路(東縁、西縁)  二の関  一の関  芝川(排水路)

 見沼通船堀は代用水路(東縁、西縁)と芝川を結んだもので、水は代用水路から芝川に向かって流れている。
 しかし、代用水路と芝川は水位差が約3mあったので、荷を積んだ船の運行は不可能だった(とされる)。
 そのため見沼通船堀では、水路に設けた閘門(一の関と二の関)を使って、水位を調節して船を通した。
 閘門の名称は西縁・東縁共に、芝川に近い方が一の関で、見沼代用水に近い方が二の関である。
 なお、一の関と二の関の間の水路は、土木工学的には閘室と呼ばれる。

代用水路 通船堀の全長 閘室の長さ

備考

東縁 215間(約390m) 50間(約90m) 通船堀の天端幅は4〜6間(7.3〜10.9m)、閘室の幅は9尺(2.7m)
船溜り(二の関と見沼代用水の間)の天端幅は10間(18.2m)
西縁 364間(約660m) 100間(約180m)

 見沼通船で使われた船は、舟底が平らな[ひらた船]や[なまず船]と呼ばれる小型船だった。
 船の大きさは色々あったようだが、平均的な大きさは長さ6間4尺(12.1m)、最大幅7尺7寸(2.3m)、
 深さ2尺6寸(0.8m)程度だったようだ。→見沼土地改良区史、見沼土地改良区、1988、p.864
 船の積載量は50石積みが多かったようだが、それでも米俵なら約120俵を積むことができた。
 ただし、帆はおろか櫓もない船であり、動力は竹竿のみであった。

 閘門の操作方法
 例えば芝川から東縁へ入るには
 (1)船に綱をかけて数十人の人々で引いて、
   一の関まで引いてくる。
 (2)船を閘室に入れたら、一の関に
堰板(木製の
   
角落し板)を一枚ずつ差し込む。
 (3)水がせき止められて、一の関の水位が上昇し、
   しばらくすると、二の関の敷高と同じ位になる。
 (4)再び、船を引いて二の関まで移動させる。
 (5)二の関に
堰板を差し込んで、二の関の水位を上昇させる
 (6)船は東縁へ入れる
 東縁から芝川へ出るには、上記の逆の手順を行う。
 ただし、
堰板は一枚ずつ抜いていく。
 なお、一の関の敷高は二の関よりも1.6m低かったので、
 閘室に入った船は、水のエレベータに乗って、
 1.6mも高い所へ上昇したわけである。

(補足)見沼通船堀の閘門は古典的な形式であり、堰板の着脱や注排水には長い時間と
 多くの人手が必要な構造であった。堰板は木製だったので、板と板の間には隙間が
 生じるので遮水性が低く、なにより水圧に対抗して、人力で板を差し込んだり抜いたりするのは、
 至難の技だったと思われる(この作業は枠抜きと呼ばれ、熟練を要するので、専門の人が常駐していた)。
 上記の(1)から(3)までの工程だけでも、1時間近くを要したようである。
 また、関まで数人ががりで船を牽引しなければならないのも非効率であった。
 ちなみに近代閘門(lockまたはlock gate)は電動式のマイータゲート(合掌扉)と注水扉を
 備えていて、注排水は短時間で完了する。もちろん船舶は閘門まで自走できる。

 現代人の感覚からすると、見沼通船堀は非効率さばかりが目に付くが、当時の舟運は少ない労力で
 大量の物資を輸送できる最も効率の良い手段であった点を考慮すれば、船の移動に関する多少の
 煩雑さなどは問題にならなかったのだろう。ちなみに見沼通船堀で使われた小さな舟でも、
 一艘には米俵が約120俵積めたが、陸路の主な輸送手段だった牛や馬では、その背には
 米俵は2俵しか積めなかった。どちらも搬送に要する人員は1〜2名なので、効率は舟の方が
 圧倒的に良い。なお、見沼通船堀では見沼代用水の側には船溜り(係留兼待機場)が
 設けられていたので、そこで待機している船と積荷の交換が可能だった。
 また、芝川からの下りの船が閘門を通過して船溜りに到達したら、すぐさま上りの船を
 閘門へ誘導すれば、船を通すのに必要な閘門の操作は、堰板を外すだけで済むので合理的である。
 堰板を一枚づつ差し込んで閘室の水位を上昇させるよりも、
 堰板を外して閘室から水を排出する方が時間は遥かに短く済む。 


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