見沼通船堀 (みぬま つうせんぼり) 国指定史跡

所在地:さいたま市緑区大間木〜下山口新田、西縁〜芝川〜東縁

JR武蔵野線の東浦和駅から南東へ200mの地点に、見沼通船堀公園がある。
これは日本最古の閘門式運河(注1)とされている見沼通船堀(閘門と水路)の跡を、
親水公園として整備し直したものである。見沼通船堀は土木技術の変遷や
産業・交通の発展を知るうえでの極めて重要な遺構であるとして、
昭和30年(1955)に埼玉県指定史跡、昭和57年(1982)には国指定史跡となった。
朽ち果てて原形をとどめていなかった閘門も、平成9年(1997)に復元されている。

見沼通船堀の歴史:
見沼通船堀は、見沼代用水の開削から3年後の享保16年(1731)に、井沢弥惣兵衛によって開かれた。
見沼代用水路の東縁と西縁を芝川(見沼代用水の排水路)とつないだ運河(内陸水路)である。
見沼通船堀の目的は、見沼代用水沿岸の北足立郡、南埼玉郡、北埼玉郡から
芝川を経由して、隅田川(現在の荒川)、江戸市中へと通じる舟運を確立することであった。
当時の舟運は大量の物資を一度に遠くまで輸送できる唯一の手段であり、現代の鉄道や
高速道路に匹敵した。見沼通船では上りの船は江戸へ年貢米を廻送し、
下りの船は見沼代用水沿岸へ生活物資(塩、肥料、雑貨など)を運んだ。

幕府から差配役(積荷や船頭の割り振りを行なう)を任ぜられたのが、高田家と鈴木家である。
両家(親戚同士)は紀州の出であり、伊沢弥惣兵衛に従って、見沼の干拓事業に参加している。
八丁橋(芝川)の袂には鈴木家の住居跡(文政年間の建築、国指定史跡)がある。
また、八丁橋の左岸橋詰に祀られている水神社は、見沼通船に携わる人々が舟運の安全や
水難防止を祈願して祀ったものである。見沼通船は江戸時代を通して幕府の管理下にあったが、
明治期になると経営権は民間に移行し、明治7年(1874)には見沼通船会社が設立されている。(注2)
これにより通船の範囲は見沼代用水だけでなく、上流部の周辺河川(星川忍川元荒川)にまで
拡大した。見沼通船会社は荷の運送だけでなく、客船業務もおこなったので、地域の足としても貢献した。
以降、昭和6年(1931)に廃止になるまで、見沼通船は約200年続けられた。

見沼通船堀の特徴:
東縁と西縁が最も接近する地点には、見沼溜井の締め切り堤防(八丁堤と呼ばれ、寛永年間:
1630年頃に伊奈氏によって築造)が設けられていた。八丁堤という名前は東西に連なる堤防の
長さが八丁(約870m)だったことに由来する。なお、現在の県道103号吉場安行東京線は
八丁堤の跡であり、かつては赤山街道とも呼ばれた。この街道が伊奈氏の陣屋があった、
赤山(現在の川口市赤山)へと繋がっていたからである。(注3)
見沼通船堀は八丁堤のすぐ北側に八丁堤に並行して建設された。東縁と西縁の路線は、概ね芝川の
侵食谷の縁(崖)に沿っているので、通船堀の設置地点は侵食谷の谷幅が最も狭い箇所である。
井沢弥惣兵衛は、芝川の東側に215間(約390m)、西側に364間(約660m)の運河を掘り、
それぞれを東縁と西縁へ繋げ、東西の運河には閘門(一の関と二の関)を設けた。
代用水路と芝川は水位差が約3mあり、船の運行は不可能だったので、閘門を使って運河の水位を
調節して船を通行させたのである。 通船の方法閘門操作の解説とアニメーション

見沼通船と芝川:
見沼通船の運行は冬期のみであり、かんがい期(田んぼに水を必要とする時期)は
通船堀には通水されなかった。東西の代用水路から通船堀への入口(出口)には、仮締め切りが
設けられていて、かんがい期はここに土俵を積んで、通船堀に水が流れ込まないようにした。
仮締め切りは本来の用途以外にも(例えば、非常時(洪水時)や閘門・水路の保守点検時など)、
副次的な効果を発揮したと想像できる。
見沼通船で興味深いのは芝川の存在である。芝川では見沼代用水の送水とは無関係に
一年中、通船が行なわれていた。明治時代に見沼通船会社が設立されると、
17の会社のうち6会社は主に芝川を使って営業した。→文献1、p.881-889
扱う荷の特色は東京からの肥料(人糞)が多かったことであり、肥船と呼ばれる運搬船が往来していた。

 西縁の通船堀
↑西縁の通船堀(下流から)
 附島橋(西縁)の付近。このすぐ上流には氷川女体神社が
 祀られている。女体神社の付近は護岸が施され水路幅も
 広いが、この付近は水路幅が非常に狭く感じられる。
 船が運航していたとは信じがたい。堆砂の影響と水量が
 少ないからだろう。もっとも水深が50cmもあれば当時の
 船は進める。法面勾配は意外に緩傾斜(1:1.5位)だ。
 この付近は原形保存区間なのだろうか。右岸側は
 大宮台地の縁部であり、竹と落葉樹の見事な斜面林が
 残されている。個人的には閘門よりも斜面林と素掘りの
 水路が創出している水と緑の景観の方が、
 文化的価値が高いと思う。
   西縁 一の関
  ↑西縁 一の関
   形態的には
堰枠であるが、表記は堰ではなく関である。
   閘門(翼壁と閘室)は建設当初(江戸時代)から側壁と底版が
   板張りであった。板張りにすると素掘りのままの水路に比べて
   粗度係数が小さくなり、流水抵抗が少なくなるので、閘門付近では
   水の流れが速くなる。また、翼壁の平面配置はハの字であり、
   閘室は幅が狭めてあるので、さらに流速は速くなる。
   差込んだ堰板の数に速やかに応答して、閘室への流入量は
   大きく変化する。そのため、護岸を兼ねると共に河床の洗掘防止や
   漏水防止のために板張りにしたのであろう。側壁の形式は
   古典的な土抱板(木製の土留め壁)であり、補強のために壁の
   背面には斜材(支保)と天端には梁木が設けられている。

 芝川に注ぎ込む西縁通船堀
↑芝川に注ぎ込む西縁通船堀(下流から)
 八丁橋(芝川)の上流付近。かつては、ここから船が
 通船堀へと遡上して行ったのだ。西縁の通船堀は
 平均水路底勾配が1/220だが、これはそれほど
 急ではない。自然河川でも上流から中流部では、
 このくらいの勾配の地点は多々ある。船の遡上にとって
 水面勾配が急なことよりも、水量が少ないことの方が
 悪条件である。ちなみに見沼代用水の幹線水路の
 平均水路底勾配は1/6000であり、ほぼ水平だ。
 なお、通船堀の古写真などを見ると、堀の周辺には
 樹木がうっそうと生い茂っているので、
 現在見られる小奇麗な樹木は、公園化に伴い、
 修景のために伐採・移植されたものだろう。

   東縁 二の関
  ↑東縁 二の関
   江戸時代に主流だった関東流や紀州流の関枠は、
   このように神社の鳥居に似た形の
門柱(水平材が笠木、
   2本の垂直材が男柱)を備えていた。閘門に限らず取水堰も
   この形式である。復元された二の関では、男柱には角落し用の
   溝が設けられていないので(復元が忠実かつ正確であるなら)、
   
角落し板は、はめ込み式ではなくて、男柱の前面に置いて
   水圧で圧着させる方式だったのだろう。なお、閘門の地点では
   船一艘がやっと通れる位に水路幅は狭くなっている。
   これは角落し板の着脱に応じて、閘室の水位を迅速に
   変化させるための工夫である。見沼土地改良区に残された図面に
   よると(→文献1、p.862)、閘門の幅は9尺(約2.7m)だが、
   台形の漸拡部(長さ9尺)を挟んで水路幅は12尺(約3.6m)に広がる。

(注1)見沼通船堀は日本最古の閘門式運河ではない。
 閘門式運河は世界的には古くから存在する方式であり、複数の水門を設け運河の水位差を
 調節して船を通すという手法は、1200年頃にオランダで考案されたようである。→文献1、p.859
 そもそも、古典的な閘門の構造は堰枠を2つ設けて、堰枠間の水路を閘室としただけの
 単純なものなので、主要施設である堰枠自体はそれほど強度を要求されない。
 しかも伏越や圦樋に比べれば、施設を河床や堤防の中に埋設する必要がないので、
 施工は容易で保守もしやすい。日本でも見沼通船堀より以前に閘門式運河が各地で建設されている。
 例えば吉井水門(倉安川、岡山県岡山市、岡山県指定史跡)は、見沼通船堀よりも50年以上前の
 延宝年間(1680年頃)に造られた。吉井水門は吉井川と倉安川を結ぶ運河(農業用水路を兼ねる)に
 設けられた閘門で、通船の方式は見沼通船堀とほぼ同じであり、二つの水門によって
 閘室の水位調節をおこなった。ただし、吉井水門は木製ではなく石造りである。→文献3、p.275
 岡山市のHPには[おかやまの埋もれた歴史再発見]に、吉井水門についての解説がある。
 → http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/okayama-history/09yoshii-suimon.htm

(注2)明治2年(1869)には柴山以北の町村有志(現在の白岡町、菖蒲町、騎西町、鴻巣市、
 行田市)から埼玉県に対して、通船区域拡張の上申書が提出されている。→文献2、p.636
 これを契機に明治7年には、17の会社(河岸場)の集合体である見沼通船会社が設立され、
 宝暦10年(1760)の柴山掛樋の廃止以来、途絶えていた柴山伏越よりも上流部での通船が再開された。
 江戸時代までは柴山伏越で航路が終点だったのが、最上流は忍町(行田市)まで延びたのである。
 見沼代用水の元圦(利根川からの取水口)付近には、見沼通船会社の第二会社が置かれた。
 第一会社が置かれたのも行田市であった。会社といっても実態は荷物の積み下ろしのための
 船着場であり、荷揚場と呼ばれていたようだ。忍町の荷揚場は”掲示場より東方三町三十間にあり
 是れ東京より見沼代用水路通船を以て当町及ひ熊谷深谷の宿駅等に輸入する諸貨物を
 扱ふの処なり”と記録されている。→文献4、p.173
 忍町中央の掲示場から約380m東に荷揚場があり、そこから熊谷市や深谷市の方面まで
 荷が送られていたのだ。掲示場の場所は不明だが、江戸時代の高札場と同じ所だったのなら、
 現在の武蔵野銀行 行田支店(昭和初期竣工の瀟洒な建物)の脇である。
 なお、見沼通船の所要時間であるが、記録によれば最上流の行田市を出発してから、
 通船堀を経由して、東京の神田や日本橋の河岸に到着するまでには、丸一日以上(26時間位)
 かかったようである。埼玉県域では明治16年(1883)には、中山道鉄道(JR高崎線の前身)が
 開通し、熊谷駅と上野駅が結ばれたことで、埼玉県の北部は東京と直結している。
 鉄道に比べると、通船は運搬速度と荷物の量で明らかに劣り、競争力はなかったであろう。
 鉄道の開通に伴い、周辺道路の整備も行なわれ陸運も隆盛となったので、見沼通船は
 上流側(埼玉県の北部)から次第に衰退していった。しかし、下流部は鉄道の影響を受けて、
 すぐさま通船が衰退したわけでもなく、意外なことに昭和初期まで(実質的には大正中期まで)、
 見沼通船は継続されたのである。

(注3)寛永6年(1629)に伊奈忠治は陣屋を赤山に移している。
 現在も川口市赤山には陣屋敷という小字が残っている。
 なお、さいたま市緑区三室の旧赤山街道の辻には、寛保二年(1742)建立の
 庚申塔が残っているが、それは道標(道しるべ)を兼ねていて、
 大宮道とともに赤山道が記されている。
 赤山に移転するまでは、伊奈家の屋敷は足立郡小室村に置かれていた。
 北足立郡伊奈町の原市沼のほとりには、広大な伊奈屋敷の跡(県指定史跡)が残っている。

(参考文献) (1)見沼土地改良区史、見沼土地改良区、1988
        (2)見沼土地改良区史 資料編、見沼土地改良区、1988
        (3)水土を拓いた人びと、農業土木学会、1999
        (4)武蔵国郡村誌 13巻、埼玉県、1955


戻る:[見沼代用水] [西縁と東縁の分岐点][西縁点描][東縁点描