見沼代用水 (みぬま だいようすい)

 見沼代用水路は利根大堰(埼玉県行田市)を起点とし、幹線水路の総延長は約70km
 (支線水路を含めると約100Km)、8市6町を流下し、埼玉県をほぼ南北に横断している。
 見沼代用水は葛西用水(埼玉県)、明治用水(愛知県)とともに日本三大農業用水と称されている。
 形式:フリューム及びコンクリートライニング(3面張り)、 施設容量: 43.5m3/s、 灌漑面積:15,400ha

 見沼代用水は8代将軍、徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛(いざわ やそうびょうえ)によって、
 享保13年(1728)に建設された農業用水路(→注1)
 見沼溜井(ためい)の代りとして造られた用水路なので、この名称となった(→注2)
 見沼溜井とは、下の摸式図の[見沼たんぼ]と記された地点にあった、農業用水のため池である。
 見沼代用水は利根川の右岸(行田市下中条)を元圦(もといり:用水の取り入れ口)とし、
 元圦から上星川(一級河川)までの約2kmの区間(見沼井筋)と八間堰(菖蒲町上大崎)から
 見沼溜井までの約45kmの区間の水路が新たに開削された(→注3)
 新水路は途中で元荒川、綾瀬川と交差したが、それらの箇所には柴山伏越(サイフォン)と
 瓦葺掛樋(水路橋)が設けられ、元荒川の下および綾瀬川の上に水路を通した(→注4)
 見沼井筋から八間堰までの約17Kmの区間は、星川を見沼代用水の送水路として利用したが(→注5)
 これは工期短縮と建設費の節約および安定した水量確保のためである(→注6)

 用水路の特徴:
 施工時には工事量(水路の掘削と堤防の盛土)が少なくて済むように計画がなされ、
 見沼代用水路の路線はおおむね地形的に高い所が選定されている(→注7)
 このため、長大な用水路であるにもかかわらず、確実な送水が可能となっている。
 見沼代用水は全線が自然流下であり、水は高い所から低い所へと流れる。
 なお、見沼代用水の幹線水路は、上尾市の瓦葺(かわらぶき)で、西縁と東縁(にしべり、ひがしべり)
 2つに分岐する。西縁と東縁の路線は概ね、芝川が大宮台地を侵食した谷の縁(崖)に
 沿っているが、ここはかつては見沼溜井の周縁部でもあった。そうした自然地形が
 反映されているので、西縁と東縁は頻繁に蛇行を繰り返しているのだ。
 台地の縁の高い所に用水路である西縁と東縁を配置し、見沼溜井の中央(最低標高部)には
 排水路として芝川と加田屋川が設けられた。このような方式を用排水分離という。

 総合的な地域開発事業:
 見沼代用水の建設は、かんがい(農業用水の取水、水不足の解消)だけが目的でなく、
 干拓
(見沼溜井を含む中川低地に数多く存在した湖沼や溜井の干拓)(→注8)
 治水(洪水防御、見沼新田の排水のために見沼中悪水路を開削。中悪水路とは芝川のこと)(→注9)
 運河(見沼通船堀を建設し、見沼代用水の沿岸地域と江戸を結んだ水上輸送を確立)までも
 含んだものであり、本邦初ともいえる広域に及ぶ総合的な土木事業だった(→注10)
 これらの工事は見沼代用水の開削とほぼ並行しておこなわれた。つまり、見沼溜井を干拓しながら、
 同時に代用水路の開削をしたのである。芝川は見沼溜井の干拓のさいには排水路として使われた。
 ただし、見沼通船堀は見沼代用水と同時に成立したのではなく、3年後に完成した。
 江戸時代において、通船(舟運)は大量の物資を最も速く、しかも効率的に運搬できる方法であり、
 これは現代の高速道路や鉄道に相当する。見沼代用水では農業用水だけでなく物資も運ばれた。

 用水路の管理:
 江戸時代には見沼代用水路は、幕府の直轄(勘定奉行所の所管)によって維持管理されていた。
 幹線水路とそこに設けられた構造物(分水工、伏越、掛樋など)の修繕・改築は、幕府の普請役が行い、
 通水量の管理には幕府から水配掛という役人が現地へ派遣された。水配掛の最大の任務は
 公平な用水配分であった。そのため、元圦、八間堰、十六間堰といった重要施設は、農民が
 勝手に操作をすることが禁じられていた。ただし、数村へ取水するような小さな圦樋(水門の一種)の
 管理・操作は名主などの農民が行った。同様に支線水路の藻刈り(雑草の刈り取り)や
 浚渫(土砂、ヘドロ等の除去)も地元の農民が担当した。圦樋や用水路の維持管理には、
 人と金がかかる。その費用分担を公平にするために、関係する村々は組合を組織していた。
 明治時代以降は見沼代用水路の管理は民間へ移行し、見沼代用水路普通水利組合を経て、
 現在は見沼土地改良区が管理している。
 なお、見沼代用水の元圦は開削されてから約250年間も使われたが、水資源開発公団による
 合口一期事業によって、利根大堰(利根川に設けられた日本最大の取水量の堰)から
 葛西用水などの他の用水路と一緒に取水されることになり、1968年には廃止された。
 元圦の跡地は見沼代用水元圦公園として整備されている。

 変貌する見沼代用水:
 約300年もの間、農業用水路として利用されてきた見沼代用水だが、社会環境の変化により、
 現在では、農業用水と都市用水の共用水路としての役割を担うようになっている。
 開削当初は埼玉県を横断し、最下流は東京都足立区にまで、農業用水を送っていたが、東京都や
 埼玉県の南部では急激に都市化が進行したために、今は水田はほとんどない。一方で都市用水の
 需要は増え、水不足が深刻となっている。それに対応し、見沼代用水も本来の役目を変えつつある。
 つまり、余った農業用水は都市用水へ転用しようという考え方である。→合口ニ期事業(1995年終了)
 漏水や送水時の浸透を防ぐために、用水路はコンクリートで全面的に改修され、水使用の
 合理化のために、幹線水路には新たに9箇所に水位調節堰(チェックゲート)が設置された。
 それらの堰のゲートは、見沼管理所(下図の中央)からコンピュータを使って、集中管理されているので、
 きめの細かい操作が可能となっている。また急な増水時には瞬時にゲートを開放できるので、
 水害を防ぐこともできる。ともかく、合口ニ期事業によって余剰水が捻出されたことになる。
 そして、西縁用水路からは荒川連絡水道専用水路(→注11)を経由して、埼玉県と東京都で
 使う水道水(約4.2m3/s)が荒川へ送水されている。つまり、見沼代用水の最大通水量の約1/10は
 都市用水である。このため、非かんがい期でもある程度の通水がなされるようになった。
 冬季通水と称して、地域用水(環境用水、水路維持水、防火用水)の通水も、試験的にだが行われている。
 ちなみに見沼代用水の最大通水量約40m3/sは、首都圏800万人分の都市用水量に匹敵する。

見沼代用水路の案内図 
 見沼代用水路の模式図 (柴山伏越付近の案内板から作成。は重要施設)
施設: 距離:

   水路・風景:

始点   赤字の区間は 
  星川の河道を
  水路として利用

  
幹線水路(1)

  
幹線水路(2)

  
西縁用水路

  
東縁用水路

 新川用水(騎西領用水)

 鴻沼用水(西縁から分水)

  
排水路(芝川)

  緑のヘルシーロード

  
沿線の石仏(1)

  沿線の石仏(2)

  沿線の石仏(3)

  沿線の石仏(4)

  
見沼代用水元圦公園

  見沼代用水の古い橋
  1.7K
見沼公園
  8.4K
騎西領分水工
  8.3K
中島分水工
  0.3K
八間堰・十六間堰
  3.2K
柴山伏越
  8K
瓦葺伏越
  16K
見沼通船堀

 末田須賀堰

(元荒川)

(注1)見沼代用水の計画案:
 見沼代用水路は工事着工から、わずか6ケ月で完成したことは有名だが、
 見沼溜井干拓の立案(1673年)から工事着工までには、実に50年以上の歳月を要している。
 見沼溜井に代わる新しい用水路の計画案は幕府ではなく、広域の村々が互いに協議・調停を
 重ねながら練り上げていた。例えば、元禄14年(1701)には関東郡代 伊奈半左衛門に宛て、
 以下の内容を含んだ新堀開削案が提出されている(→文献1、p.68)。
 (1)忍領の排水困難と騎西領の取水量不足の問題を解消するために、星川へ利根川の水を導水する
 (2)岩槻領の水害を軽減するために、元荒川の備前堤の上流側を溜井として、
  そこから用水路を開削して見沼溜井へ導水する
 (3)見沼溜井の中央部には排水路を設け、溜井の周縁部には2つの水路を設けて新田へ送水する
 この案は非常に広域的な視点に立っていて、見沼溜井の干拓と新しい用水源の確保だけでなく、
 当時、見沼溜井の上流に位置する地域間で発生していた水問題までをも、見事に解決している。

 興味深いのは忍領、騎西領、岩槻領の存在とその扱いである。これらは後に幕府の要職(老中等)を
 務める有力大名の所有地だった。延宝年間頃(1675年頃)の各領の藩主は、忍領が忍藩の
 阿部豊後守正武、騎西領が川越藩の柳沢吉保、岩槻領は岩槻藩の阿部備中守だった。
 新堀開削案は表向きは広域の村々が協議を重ねて、計画案を練り上げたことになっているが、
 裏ではこれらの有力藩が画策し、各村の同意を取りまとめた可能性が高い。
 なお、(2)の路線案で重要な役割をなす備前堤とは、慶長年間(1600年頃)に治水のために
 綾瀬川を元荒川から締め切った(切り離した)堤防であり、現在そこは綾瀬川の一級河川管理起点と
 なっている。元荒川から備前堤の上流へ分水し、そこから新水路を開削して、おそらく原市沼川
 導水する計画だったと思われる。原市沼川は綾瀬川の支川であり、瓦葺伏越の付近(西縁と
 東縁の分岐点)で綾瀬川に合流している。

 このような各村々が思い描く(自分の村に有利な案であったことは否めない)、代替用水路案を
 農業土木的な見地から、より現実的なものへとまとめ上げたのが、井沢弥惣兵衛である。
 ただし、井沢の見沼代用水の路線計画は、(1)の問題点は改善される方向となったが、
 (2)の問題点は据え置きであった。というよりも、見沼代用水の開削によって、元荒川と
 星川の水量は増えたので、岩槻領の治水問題は以前よりも悪化したといえる。
 例えば水害に関しては、備前堤はその高さと規模を巡って、上流の忍領や鴻巣領と
 下流の岩槻領との間で論争や紛争が絶えず、論所堤と呼ばれた。
 しかし、利水の面から見れば、見沼代用水の開削によって、星川の水量が増えたことで、
 岩槻領の末田須賀溜井(岩槻市、元荒川)への用水供給量は確実に増えたのである。

 ともあれ見沼代用水が立案から工事着工までに時間がかかったのは、星川に設置されていた、
 上崎洗堰をめぐる忍領と騎西領の利害対立(利水と治水)が主な原因であった(→文献3、p.77)。
 上崎洗堰とは星川(現在の騎西領用水分水工の付近)に設けられていた騎西領の取水堰。
 騎西領用水(新川用水)は元和年間(1620年頃)の開発とされ、見沼代用水の開削以前から
 存在する歴史の古い用水路である。星川の河道に上崎洗堰を設け、その上流を溜井(新川溜井)と
 して水を貯留して、新川用水へ送水していた。上崎洗堰の形式は、蛇籠の中に石を詰め込んだ、
 固定堰(もぐり堰)だったが、堰の上部に土俵を積み立てることによって、水をせき止めて溜井の
 貯水量を増やしていた。この土俵は星川の増水時と非かんがい期には、騎西領が撤去する協定が、
 忍領との間に結ばれていたのだが、守られないことが多かったようである。騎西領用水を巡って、
 忍領と騎西領が紛争を繰り返していた根本的な原因は、星川の水量不足にあった。
 上崎洗堰は見沼代用水の成立と共に撤去されたのだが、14年後の寛保二年(1742)には再び、
 幕府から設置許可が出されている。上崎洗堰が完全に撤去されるのは天保八年(1837)だが、
 これは水利形態の抜本的な見直しとして、星川の流路を二分して用水と悪水を
 分離する方策が採られたからである(上崎堰脇用悪水新規堀割議定書、埼玉県史 資料編13、p.902)。
 再建された上崎洗堰が、天保八年までの約100年間存続した理由は、星川の水量不足の対策として
 用排水兼用によって水の再利用率を高める必要があったからであろう。

(注2)見沼溜井から見沼田んぼへ:
 見沼溜井とは伊奈氏によって、寛永年間(1630年頃)に築造された農業用水の溜め池。
 現在の埼玉県域では、江戸時代初頭から盛んに新田開発が実施されていた。
 これは利根川の東遷、 荒川の西遷など、幕府による大規模な河川工事が実施されているので、
 それに伴い、周辺地域では治水や利水の環境が整えられ、新田開発が進行したのだと思われる。

 見沼溜井は新田の用水源として整備されたもので、周囲長約40Km、水深約1m、南北に
 細長い形であり、上尾市の南端から、さいたま市を経て川口市付近まで延びていた。
 北は岩槻街道、南は赤山街道、東西は現在の東縁水路と西縁水路で囲まれた範囲に相当する。
 東縁水路のすぐ東側は台地であり、日光御成街道が位置していた。
 見沼は平面形状がYの字に似ていたことから、三沼とも表記された。元々は沼が三つあったとの説もある。
 竜神が住む神の沼であることから、御沼、巳沼だったとする伝承もある。巳は竜神の化身である蛇だ。
 一方でミヌマは罔象女命(ミツハ)という女神と同じであり、ミツハとは水の蛇を意味し
 水神だという(続日本の地名、谷川健一、p.87)。

 縄文時代前期(約6000年前)には、地球の気候温暖化の影響で、海水面は現在よりも平均して、
 4〜5mも高かった。したがって、海は内陸にまで進入していた(縄文海進)。
 当時、見沼は海の底(古東京湾)であり、現在の東縁と西縁は海岸線だった。
 見沼の周辺には、縄文人が海辺で生活していたことを示す、貝塚が数多く分布している。
 しかし海が次第に後退し、陸地が現れてくると、その最低標高部を侵食して川が流れるようになった。
 この川が芝川の起源である。芝川は台地を侵食すると共に、流域には土砂を運搬し堆積させた。
 そして江戸時代の初め頃には、芝川流域の低湿地(侵食谷)には、広大な沼地が形成され、
 見沼と呼ばれるようになった。

 伊奈氏は沼地の南端に八丁堤と呼ばれる堤防を築いて、見沼を完全に締め切った。
 八丁堤は侵食谷の谷幅が最も狭い地点に造られた。八丁堤という名は堤防の長さが
 八丁(約870m)だったことに由来する。現在の県道103号線は八丁堤の跡だ。
 上流地域からの悪水(雨水、排水)を見沼へ集め、八丁堤でせき止めて溜め池とし、
 下流地域(浦和領、戸田領、笹目領、舎人領、安行領、谷古田領、平柳領、淵江領の8領221ヶ村)の
 かんがい水源としたのである。見沼溜井の下流端には大間木(現さいたま市、附島橋)と
 木曽呂(現川口市、山口橋)を取水口とする2つの用水路が設けられた。
 これらは後に見沼代用水の開削に伴い、西縁と東縁へ改修された。
 また、大門村差間(現在の川口市差間)には赤堀用水路が設けられたが、この用水は
 赤山領(伊奈氏の領地であり、赤山陣屋が置かれていた)をかんがいするものだった。
 なお、赤山へと通じる道は赤山街道と呼ばれていた。さいたま市緑区三室の旧赤山街道の辻には
 寛保二年(1742)建立の庚申塔が残っているが、それは道標(道しるべ)を兼ねていて、
 行き先として大宮道と共に赤山道が記されている。
 以上、見沼溜井の完成によって、現在の見沼田んぼは、いわばダム湖の下に完全に
 沈んだのである。もっとも、見沼は数万年前には海の底だったわけだから、
 大昔の状態に再び戻ったことになるのだが。

 見沼溜井は洪水時には下流側の江戸を水害から守る、遊水池としても機能していたが、
 溜井の上流側では八丁堤の存在によって、悪水の流下が妨げられるために湛水被害も多発していた。
 農作物の収穫に大きな被害を及ぼすだけでなく、民家も浸水被害に陥っていた。
 溜井の水深が最も深かったのは、本郷村から大和田村(共に旧大宮市)にかけてだったが、
 これらの地域では、既存の田んぼが水没する被害が続出している。これを[水いかり]と称した。
 大宮市史 第三巻上、p.624によれば、水いかりによる犠牲田は、高鼻村で村高100石に対して
 51石(全体の51%)、大和田村では250石に対して88石(35%)だった。犠牲田には代替地が与えられた。
 なお、片柳村の万年寺は境内にまで浸水し、結局、移転を余儀なくされている。
 見沼溜井の成立によって、上流側の地域では湛水被害が増えただけでなく、それまで入会地として
 利用されていた土地が水没してしまったので、肥料や燃料の供給機能も著しく低下してしまった。
 一方、溜井の下流側では水田の開発が進行し、結果として農業用水の不足がより深刻になった。
 しかし、見沼溜井はその水源自体が次第に枯渇していった。沼沢地に設けられた溜井だったが、
 直接、水源となるような河川が乏しく、天水(雨水)や湧水が主水源だったのが原因である。

 元々、見沼溜井の水源は河川への依存度は低かったのだが、それでも寛永6年(1629)の
 荒川の瀬替えは見沼溜井の水量減少に影響が大きかったと思われる。
 荒川の流路が大宮台地の西側へ移されたことによって(荒川の旧流路は元荒川となった)、
 溜井への流入量は、年を経る毎に減少していったと想像できる。
 瀬替えによって水源を失った元荒川は急激に水位が低下し、元来は見沼溜井へ流れ込んでいた、
 鴻巣から桶川にかけての悪水は、元荒川の方へ集まるようになった。
 さらに元荒川の流域では新田開発が進行し、元荒川は用水の還元率が高い(取水した用水が
 排水となって再び元荒川へ戻る)、自己完結した河川に変貌してしまったので、見沼溜井の
 水源となる河川は桶川、上尾から流れてくる小排水路(現在の芝川の源流部)のみになってしまった。

 また、見沼溜井は長年の土砂の流入堆積によって、建設当初よりも水深が浅くなり(末期には
 3尺:約90cm程度だったという)、貯水可能量も減少していた。溜井の区域が広すぎるために、
 本格的な浚渫(溜まった土砂の除去)は不可能だっただろう。堆砂によって溜井には陸地化する箇所も
 出てきた。これに目を付けて溜井の干拓を願い出たのが、江戸の町人、加田屋(坂東家)である。
 延宝3年(1675)には、見沼溜井の一部を堤防で締め切って、溜井の水を綾瀬川に排水し、
 入江新田約52haが開発された。しかし下流側の村々から新田開発が溜井の用水不足の
 原因となったと訴えられたことなどから、享保年間には入江新田は再び、溜井へ戻されてしまった。
 入江新田の事例は、延宝期には既に溜井の水深が減少していて干拓が容易になっていたこと、
 そのため下流地域では用水不足が深刻となっていたことを示している。ともかく、見沼溜井の貯水量を
 増やすには、八丁堤をさらに高くする必要が生じてきたのである。こうなると上流側での水害発生頻度が
 さらに増えることは明らかなので、上下流間では見沼溜井の利用に対して、その利害が対立する。
 つまり、八丁堤の高さを巡って、紛争がさらに激化することになる。

 時が経ち、享保年間(1720年頃)になると、溜井の利点よりも弊害の方が深刻になり、見沼溜井周辺の
 治水対策が急務となった。一方で、急増する江戸の人口を支えるためには、食料の増産が必須だった。
 そのような社会情勢から、見沼溜井という農業水源までも潰して、そこに新田を開発する必要に
 迫られたのである。ところが現在の埼玉県の県域では、享保年間頃には条件の良い土地は
 大部分が既に新田へ開発されており、残されていたのは水不足のために農地にできない土地や、
 当時の土木技術では開発が困難な沼沢地などであった。
 例えば埼玉県域の総石高は、元禄十年(1697)の時点で既に、幕末(1830年頃)の91%にまで
 及んでいた。この比率は石高(収量)なので、農業技術の進歩等による生産性の向上を考慮する必要があり、
 単純に土地面積の増大とは言い切れない面もあるが、それでも新田は開発尽くされていたのが実態である。

 ともあれ、見沼代用水の開削に伴い見沼溜井は干拓された。100年ぶりに沼の水が抜かれ
 再び陸地が現れ、見沼代用水から水が供給され、見沼新田へと生まれ変わった。
 新田開発は周辺の17村によって実施されたが、江戸の町人3名の参加も幕府によって
 許され、100町歩(ha)を請け負っている(→文献1、p.79)。
 かつて、入江新田を造成した加田屋も新田開発に参加している。見沼新田は現在の
 見沼たんぼ(面積約1,200ha、見沼、蓮見新田、下山口新田、加田屋新田など)に相当する。
 なお、下山口新田と加田屋新田という名は、町人の請け負いで開発されたことに由来する。
 見沼のような沼沢地を新田開発するさいに、まず最初に実施されるのが沼地からの水抜きである。
 見沼干拓のさいの排水路だった芝川は見沼新田の排水河川:見沼中悪水路へと改修され、
 現在の見沼代用水の排水形態は、この時にほぼ確定した。

 余談だが、1,200haの水田からは、42,000俵もの米が生産できた(当時の反収を3.5俵と低めに仮定、
 1俵は60Kg)。当時の成人が1年間に消費する米の量を1石(150Kg:2.5俵)としても、
 実に17,000人分に相当する。江戸時代には埼玉県の県域では人口が1,000人を超えるような村は
 稀であり、宿や町場でも人口は2,000人程度だった。例えば寛政12年(1800)の熊谷宿(中山道の
 宿場町、江戸から8番目の宿)の人口は3,276人である。見沼新田の開発によって、
 多くの人々の胃袋を満たすことができたのだ。

 なお近代になって、見沼たんぼは再びダム湖の底へと沈む危機に直面した。
 大正9年(1920)には東京都が、見沼たんぼを東京の貯水池とする計画を立てたが、それに対し
 見沼の地元民たちは猛烈な反対運動を展開し、結局、その計画は白紙撤回されたという経緯もある。
 また、昭和33年(1958)の台風22号によって、川口市の大部分が浸水被害を受けたことを契機として、
 遊水地としての見沼たんぼの機能が再認識され、現在は農地転用と宅地などの新規開発が
 抑制されている(見沼三原則)。

 見沼溜井の干拓と見沼代用水の開削には影の部分もある。享保の改革以降、関東地方では
 頻繁に大水害が発生するようになった。その原因は新田開発によって見沼溜井のような遊水機能を
 持つ沼沢地までもが潰されてしまい、洪水が一気に河川に集中したからだとする説もある。
 つまり、幕府の政策が起因となった人災である。事実、江戸時代最大の洪水被害を
 もたらした寛保の大水害(1742年)は、見沼代用水の開削から15年後に発生している。
 なお、町人請負による新田開発では、その対象が河川敷の中にまで及ぶような例も多かった。
 河川敷に拓かれた農地は流作場と呼ばれるが、農地を守るために河川敷の中に小さな堤防を
 設けることがあった。これは洪水の流れを妨げることが多く、水害を誘発する原因でもあった。
 このような事態を食い止めるために、幕府は新たに新田開発抑制策を打ち出した。

 新田開発には別の弊害も生じていた。新田開発の対象だった野山や沼沢地は村の入会地(共有地)で
 あることが多く、そこは治水機能以外に燃料や肥料、飼料の供給機能も有していた。
 雑木林(コナラ、クヌギなどの広葉樹からなる)からは薪炭材(燃料)が採集され、落ち葉は集められ
 肥料の原料とされた。野山は秣(まぐさ)場として利用され、牛や馬へ飼料が供給された。
 沼沢地の肥沃な土は肥料として田や畑に客土されることもあった。新田開発の進行に伴い、入会地が
 潰され、肥料や飼料の供給機能が低下し、農業生産力が低下するという弊害も現れた。
 肥料が自給できないとなると、購入しなければならない。肥料を購入(これを金肥という)できるのは
 裕福な農民だけである。そうでない者は必然的に肥料の使用量が減り、結果として農業生産力が
 低下してしまう。自給自足だった生産活動に貨幣経済が徐々に浸透することで、農民個々の間での
 農業生産力の差が顕著となり、農民階層は分化し、貧富の格差が次第に大きくなっていったのである。

(注3)見沼代用水の開削工事:
 見沼溜井を廃止し、替りに新水路を開削するという案に対して、全ての農民が賛成したわけではない。
 見沼代用水の建設工事が始まる2年前の享保10年(1725)には、見沼溜井から取水していた、
 地域(浦和領、戸田領、笹目領、谷古田領、舎人領など8領)の農民は、当時の勘定奉行に
 対して計画反対の陳情をおこなっている(→文献1、p.73)。その反対理由は、
 (1)遙か遠方の利根川から水を取り入れるとのことだが、溜井の末端地域は20里(約80Km)も
 離れているので、水が届かない可能性がある、(2)川の水は水量の変動が大きいので、特に渇水時は
 用水不足が懸念される。現状の溜井方式であれば、その心配は少ない、といった内容だった。
 見沼代用水の開削は当時の用水路の常識を逸した無謀な計画として、反対農民達には捉えられていたようだ。
 見沼溜井のかんがい区域は、慢性的な用水量不足に苦しんでいたのだが、それでも見沼代用水に
 よる通水計画よりも、現在の見沼溜井の方が確実に用水量が得られるとの認識があったことがわかる。
 しかし、見沼溜井の新田開発は幕府の決定事項だったので、この反対陳情は一蹴された。

 見沼代用水の工事は農閑期の6ケ月間に実施され、90万人の労力が投下されたが(単純に
 計算すれば、毎日5000人もの農民が工事に従事していたことになる)、これは幕府の強制ではなく、
 周辺の村々が丁場(各区間毎の工事)を請け負い、自発的に行動したものだとされている。
 (もっとも当時の社会体制下では、労役も租税制度のうちに組み込まれていたので、
  自発的といっても現代の感覚とは大いに異なる)
 建築材料は幕府が供給したのだが、人夫は周辺の村々から出された。
 水路の掘削のような、特別な技術を必要としない労働力投下型の工事は、村請であっても
 充分に対応できた。重要構造物である伏越や掛樋の建設には、江戸から専門の職人(船大工が
 多かったという)が派遣された。おそらく、黒鍬と呼ばれる土木技術集団(幕府普請役の配下)も
 動員されたことだろう。用水路の工事は単に水路を掘れば、それで完成というわけではない。
 代用水が村道や農道を分断する地点には橋を架け、代用水から分水あるいは取水するための
 圦樋(いりひ:小さな水門)の建設も必要だった。それら小規模な構造物は莫大な数に及んだ。
 見沼代用水の開削は、幕府と見沼代用水の周辺の村々が協力して、しかも短期間で成し遂げた偉業である。

 水路の開削は、完成までの工期を短かくするために、上下流から同時に行なわれた。
 これには正確な測量技術が要求されるが、落ち合った地点(おそらく瓦葺掛樋の付近であろう)では、
 水路底高の違いは2寸(約6cm)しかなかったという(→文献1、p.86)。
 測量には水盛り器(水を使って水平を出す器具。現代のレベル:水準器に相当する)が使われたのだが、
 精度の低い測量器具と遠大な水路延長を考慮すると、2寸の誤差はまさに脅威的である。
 ただし、これは当時の稚拙な測量技術にしてはであり、現代の測量では用水路で6cmもの誤差は
 致命的である。なお、見沼代用水の工事では平面測量に関する記録は残っていないようだが、
 水準測量だけで路線計画が練られたのだろうか。だとしたら、2寸の誤差よりも脅威的だ。

(注4)見沼代用水の土木技術:
 見沼代用水の土木技術については、その先進性と水準の高さが井沢弥惣兵衛の神格化と共に
 さしたる根拠もなく強調され、過大評価されている。見沼溜井の代りの水源となったのは利根川である。
 見沼溜井からは実に40Km以上も北西に位置する。利根川という大河に元圦(取水樋管)を
 伏せ込んだのだが、これは本邦初の快挙ではなく、当時すでに下流の右岸堤防には
 万治3年(1660)に葛西用水、寛文6年(1666)には稲子用水(羽生領用水)の元圦が設けられていた。
 共に農業用水の取水樋管である。葛西用水は伊奈氏(その土木技術は井沢氏の紀州流に対し
 関東流と称せられる)、稲子用水は甲府領の代官が開削した。
 また、新編武蔵風土記稿の埼玉郡飯積村(10巻、p.284)には、寛永四年(1627)に
 領中十ヶ村の用水として、利根川の左岸に圦樋が設けられたことが記されている。
 これは飯積樋管(北川辺領用水)の前身である。

 見沼代用水の元圦位置の選定についても、土木水準の高さを示す事例として挙げられている。
 250年後の現在も利根大堰として、問題なく取水が機能していることが引き合いに出されることが多い。
 しかし、利根大堰の位置選定は工事費用の経済性から、右岸側の合口用水路の内で、最も上流に
 位置する見沼代用水に合わせただけである。仮に利根大堰の位置を現在よりも上流に選定したとすると、
 利根導水路は酒巻導水路の路線と交錯してしまうし、下流に選定すると周辺の地形から見沼代用水への
 通水が困難となる。そもそも、既存の用水路があるのに、わざわざ新水路を開削する無駄はしない。

 見沼代用水の元圦位置は利根川が大きく蛇行し、しかも福川が合流した直後の狭窄部であり、
 安定した取水が可能な条件の良い地点である。これは近世初頭の頃から(土木技術的には未熟だった)、
 農業用水路計画で、ごく普通に見られる取水位置の選定である。見沼代用水では、まず最初に上星川へ
 導水するのに、最も効率の良い路線を選定したと思われる。条件は確実な送水が可能であり、しかも
 工事が簡単となるような路線となるので、おそらく微高地に沿うように選定されただろう。
 それを検討しながら上流へと遡ったら、運が良いことに、利根川の右岸に取水条件の良い地点が
 見つかったので、そこを元圦の位置にしたというのが実際だろう。
 というのは、見沼井筋(元圦地点から上星川までの約2kmの開削区間)の路線は、ほぼ直線であり、
 しかも自然堤防上に位置しているからだ。自然堤防が形成されているということは、ここには往古に
 水量の大きな流れ(利根川の派川?)があったことを示していて、かつては利根川から上星川の方へ
 向かって水が流れていたことになる。見沼井筋は利根川の故道を復活させた水路だろう。

 なお、元圦は自然流入方式であり、現在の利根大堰のように利根川を完全にせき止めることは
 なかった。土木材料が木や石しかなかった時代には、利根大堰のような巨大な構造物の建設は
 技術的に不可能だったからである。現在は河川改修の結果、この付近の利根川の川幅は700m近い。
 もっとも利根川の完全せき止めは、明治時代以降も不可能であり、初めて実現したのが利根大堰である。
 見沼代用水の元圦では利根川の河道に、出し(だし)と呼ばれる小さな突堤を設け、流水が元圦へ
 流入しやすいように工夫がなされていた。それでも計画していた用水量の取水は不可能だったようで、
 見沼代用水が竣工した翌年には元圦は増設され、2箇所となった(増圦)。
 増圦は明治39年(1906)に元圦に近代的な改修(煉瓦造)がなされるまで、約180年間も使われた。
 見沼代用水元圦公園には増圦撤去のさいに建立された、撤見沼渠増圦碑記と題された石碑が残っている。

 見沼代用水には根本的な土砂流入の対策は講じられておらず(元圦の呑み口側に石枠が
 配置されていたのみ)、後年には用水路への土砂流入の問題に悩まされることになる。
 見沼代用水が開削されてから50年も経つと、上流から中流部では土砂の用水路への堆積が
 特に顕著となった。そして星川の周辺地域では、通水の困難(流下能力不足)と湛水被害が
 頻発するようになった。寛政二年(1790)にはその打開策として、小林村外61ヶ村総代が、
 中流部に新水路を開削する願いを幕府へ提出している(→文献2、p.304-306)。
 これは星川区間のバイパス水路であり、騎西町付近から右岸へ分岐し、野通川、元荒川、
 赤堀川の下を伏越で横断して瓦葺掛樋の付近へ導水する計画だったが、結局、却下されている。
 なお堆砂問題は近代になっても解決せず、明治14年(1881)にはお雇い外国人のムルデル
 土砂流入防止の方策について調査を依頼した記録も残っている。
 (→利根川改修沿革考、内務省東京土木出張所、p.97-99)
 結局、元圦に沈砂池が設置されたのは、見沼代用水の開削から実に210年後の
 昭和16年(1941)であった(元圦は昭和13年にコンクリートで全面改修)。

 また、西縁用水路の路線選定は現実的ではなかったようである。西縁の水路敷高は東縁に
 比べると相対的に高く、水が流れにくいので、上尾市瓦葺の分水地点では分水量の公平を巡って、
 近年まで水争いが頻繁だった。文化年間(1810年頃)から、西縁では用水不足(漏水や水の
 流れにくさが原因)を解消するために、水路の蛇行を直す工事や浚渫などが行なわれていたが、
 根本的な問題解決にはならず、文政12年(1829)には路線を西側へ変更して、新しい水路を
 掘る計画が周辺の村々から幕府へ提出されている。この願書は江戸時代以降、明治時代に至るまで
 再三に渡って提出されたが、遂に実現しなかった(→文献1、p.209)。

 見沼代用水に設けられた水利構造物(掛樋や伏越)も過大評価である。
 それらは見沼代用水を紹介した記事等では、紋切り型に画期的な技術とされているが、
 葛西用水では同等の構造物が、見沼代用水よりも約70年前に既に建設されている。
 葛西用水は見沼代用水と同じように、利根川から取水して南へと流下するので、随所で羽生領の
 用悪水路(おおむね南東へと流れる)と交差するからだ。例えば、葛西用水と羽生領の北方用水が
 交差する地点には北方用水掛樋が架けられ、葛西用水と既存の悪水路(宮田落岩瀬落
 城沼落手子堀午の堀岡古井落)との交差地点には伏越が設けられた。
 また、葛西用水の開削とほぼ同時期の寛文2年(1662)には、新河岸川に野火止用水の水路橋(掛樋)が
 建設されている。これは長さが実に260mにも及ぶ木製の水路橋であり、俗にいろは樋と呼ばれた。
 その長さは見沼代用水の柴山掛樋や瓦葺掛樋の5倍以上であった。
 なお伏越はその水理形態から逆サイフォンとも呼ばれるが、日本では江戸時代初頭から各地で
 建設されている。例えば、慶長16年(1611)竣工の馬頭サイフォン(佐賀県、松浦川)は松浦川の下を
 潜る伏越であり、寛永9年(1633)竣工の辰巳用水(石川県、犀川)は犀川から取水し兼六園まで
 トンネルで導水し、兼六園からは金沢城の下を逆サイフォンで横断していた。

 上述した様に、見沼代用水の建設は規模が大きく難工事ではあっただろうが、構造物については
 画期的な技術や最先端の工法を要したわけではない。伏越や掛樋を紀州流の土木技術の特徴として
 挙げている書籍も多いが(事実に反して紀州流の土木水準の高さばかりが強調されている)、
 それらは見沼代用水の開削当時は既に一般的であり、[枯れた安定した技術]だった。

 閘門式の運河である見沼通船堀についても同様である。見沼通船堀は日本最古の閘門式運河であり、
 本邦初の形式だとされている。これも誤りであり、日本では見沼通船堀の建設以前から各地で
 閘門式の運河が建設されている。例えば、見沼通船堀よりも50年以上前の延宝年間(1680年頃)に
 建設されたのが、吉井水門(倉安川、岡山県岡山市、岡山県指定史跡)である。
 見沼通船堀の閘門が木造であるのに対して、吉井水門は石造りであり、ゲート周りには
 見沼通船堀よりも高度な施工技術が駆使されている。見沼通船堀の閘門は遺構だが、
 吉井水門は本体が建設当時のまま現存している。

(注5)星川の問題点:
 見沼代用水路の上流部(行田市の見沼公園から菖蒲町の八間堰まで)は、自然河川の
 星川を改修し築堤を施して、水路として利用した(現在も使われている)。
 いわゆる星川通見沼井筋である(もっともこの呼び名は、今は死語であり使われていない)。
 星川は利根川の故道(中世以前の利根川や荒川の跡)である。江戸時代初頭まで、利根川は支川・派川が
 交錯して流れていて、(流路が蛇行していて、頻繁に合流と分流を繰り返していた)、その形態は
 蜘蛛の巣の様であったという。星川は老朽化した河川なので、両岸には後背湿地(かつては沼沢地、
 現在は水田)と大規模な自然堤防(微高地)が形成され、河床は相対的に高く、天井川となっている。
 水位が高いので用水路として使うには好都合だったと思われる。しかも利根川からの取水量に加え、
 星川とその支川(忍川長野落関根落など)の流量も代用水で使えるという利点があった。
 星川から取水していた既存用水路(新川用水など)の水量不足も利根川からの通水によって解消できた。

 しかし時代を経て、周辺の土地利用が高度化(流作場や沼沢地を干拓して農地、宅地へと転化)してくると、
 星川への排水量は増大した。星川の水位が高すぎることや流路が頻繁に蛇行を繰り返すことから、
 今度は支川から星川への排水が困難となり、周辺地域では内水被害(田畑や家屋の冠水)が頻発した。
 明治時代には行田市の周辺に煉瓦造りの樋門が数多く建設されたが、これらは洪水流が星川から
 支川(主に忍領の悪水路)を経由して、堤内(住宅地の側)へ逆流してくるのを防ぐためである。
 見沼代用水の開削以前は、星川の上崎洗堰の存在が排水困難の原因だったが、見沼代用水が
 成立してからは、星川が見沼代用水として使われていることが、新たな問題と化したのである。

 一方、利根川や荒川で大規模な洪水が発生すると、星川はそれらの洪水の通り道へと変貌した。
 元圦を閉鎖して、利根川から見沼代用水路への流入を停止しても、星川へは上星川、旧忍川、長野落、
 関根落などを経由して洪水流が流れ込んで来た。急激な増水に絶えられなくなった星川の堤防は
 各地で決壊し、周辺地域に多大な洪水被害を及ぼしていた。堤防の決壊は見沼代用水の通水量が
 最も多い星川との共用区間の中流部に集中していた。北埼玉郡太田村、広田村、共和村、種足村、
 田ヶ谷村、鴻茎村などが洪水の常襲地だった。これらの村々は現在は行田市、川里町、騎西町へと
 なっている。”荒れる星川”という状況は近年(昭和20年代)まで続いていた。
 例えば昭和10年の水害(→文献2、資料106)、昭和13年の水害(→文献2、資料107)、
 昭和22年のキャスリーン台風(→文献2、資料96)、昭和23年のアイオン台風(→文献2、資料97)などである。
 被災後には、国や県の補助金を受けた大規模な災害復旧工事が実施されている。
 特にアイオン台風の被害は甚大であり、堤防が129箇所で決壊し、用水路の被害箇所は
 総延長8,500mにも及んだ。星川の周辺にはその痕跡である沼地(洪水による堤防の切れ所や
 河川改修の跡)、旧堤防(洪水防御のための二線堤)、水防祈願の祠や石仏が数多く残っている。

(注6)見沼代用水の開削による弊害:
 見沼代用水の元圦地点の利根川上流右岸には、福川が合流しているが、その周囲には
 伊奈氏によって中条堤と呼ばれる堤防が築かれていた。
 中条堤とは利根川と福川の洪水を貯えるための控堤である。控堤は本堤(通常の河川堤防)とは
 配置の仕方が異なり、堤内地(住宅地の側)に向かって本堤に対して直角方向に設けられる。
 本堤の代わりまたは本堤が決壊した場合に備える予備の堤防(二線堤防)であり、中条堤に
 囲まれた一帯は広大な遊水地(水害を防ぐための池)であった。
 また、中条堤はその規模(堤防の高さや幅、延長)を巡って、上流と下流の村々の意見が
 対立する場であり、論所堤とも呼ばれた。このように見沼代用水の元圦は利根川治水の要所の
 すぐ下流に設けられたのである。そのため、見沼代用水の完成後には見沼代用水路を守り、
 確実で安定した取水ができるようにと、井沢弥惣兵衛によって中条堤の補強工事(増築と嵩上げ、
 水越堤の廃止)がおこなわれている。
 これによって、中条堤の上流側の地域では以前よりも水害の頻度と被害が多くなった。

 また、利根川の大洪水のさいには、見沼代用水の元圦が洪水の流入口となってしまい、
 最悪の場合は堤防が決壊し、下流域に被害をもたらすことも少なくなかった。
 江戸時代の土木技術は現代に比べると、はるかに未熟だったので、農業用水の取水は
 常に水害の危険性と隣り合わせであった。つまり、取水が容易な元圦地点とは、河川から水が
 流入しやすい場所ということであり、水害にもさらされやすい地点なのである。
 これは江戸時代に限ったことではなく、近代(大正時代初期)まで続いている。
 例えば、倉松落大口逆除の碑(春日部市、明治25年建立)、堤防修築記(蓮田市、明治44年建立)、
 洪水記念碑(加須市、明治44年建立)などに、利根川の右岸堤防が見沼代用水の元圦付近で
 決壊したことが記されている。

 堤防修築記(蓮田市)に関係するが、瓦葺掛樋の付近の地形は台地の狭窄部であり、水が
 集中しやすい所に綾瀬川が流れている。洪水で綾瀬川が増水すると、瓦葺掛樋(水路橋)の橋脚には
 流木や大量のゴミが付着し、綾瀬川の流れをせき止めてしまうことも多く、上流側には湛水被害を
 もたらしていた。最悪の場合には瓦葺掛樋が落下し、見沼代用水からの水が綾瀬川に大量に流れ込み、
 綾瀬川の下流地域でさらなる水害を引き起こしていた。例えば天明六年(1786)の利根川洪水のさいの
 瓦葺掛樋の流出などである。また、瓦葺掛樋の上流側に設置されている逃樋(余水吐)は
 代用水路の水量が増えて通水に危険が生じた場合に、用水を綾瀬川に放流するための構造物だが、
 その操作を巡っては、瓦葺掛樋の上流側と下流側で利害が対立し、頻繁に紛争が生じていた。
 さらに星川との共有区間では近年まで、頻繁に洪水被害が発生していたのは(注5)で述べたとおりである。
 見沼代用水の存在とその維持のために、多くの人々が犠牲を強いられ、
 時には生命財産まで脅かされたということを忘れてはならない。

(注7)巧妙な路線選定:
 八間堰から下流の人工水路(掘削)区間では、用水路の路線は台地の縁(崖)に沿うように
 選定されている。台地の縁(斜面)を水路の堤防へと転用することにより、築堤の量は半分になり、
 残りの築堤(見沼田んぼに面した側)は、水路を掘削した残土のみで可能となった。
 切土と盛土の量をうまくバランスさせる工夫がなされていたのだ。
 しかも台地の縁は地盤が強固であり、漏水防止のための水路底の突き固めも省力化できるなど、
 水路の建設には好都合であったと思われる。さらに台地の縁には田畑はほとんど存在していないので、
 水路の開削による潰れ地は発生せず、従ってその補償問題も起こらないという利点があった。

 路線が台地の縁に沿った形態は、東縁・西縁水路で顕著である。東縁は概ね安行台地の西側、
 西縁は大宮台地の東側の縁に沿っている。両台地には重要な街道が設けられていて、
 安行台地には旧日光御成道、大宮台地には旧中山道が通っていた。
 なお、東縁・西縁水路では、八丁堤から下流の区間では新たに水路を掘削せずに、
 見沼溜井の旧用水路を、東縁と西縁へ繋ぎ工事量を減らしている。
 東縁・西縁では水路の脇に沿った斜面林と周辺に広がる見沼田んぼとが融合し、見事な景観を
 形成している。井沢弥惣兵衛は単に用水路を掘っただけでなく、豊かで奥行きがある空間をも
 創り出し、それを背景に据えた。
 水と緑と土が織り成す、懐かしさを感じさせる原風景、まさにgrand designである。

(注8)周辺湖沼の干拓:
 井沢弥惣兵衛は見沼代用水路の開削と前後して、見沼代用水の沿線に分布していた湖沼や
 溜井を干拓し、新たに新田(約600ha)を開発している。干拓方式は見沼溜井と同様に、沼沢地の
 中央に排水路を配置した堀上田方式(ほりあげた)であった。現在は一級河川となっている川も
 その起源を辿ると、井沢が湖沼干拓のために整備した堀や落し(悪水路)であるものが多い。
 例えば、野通川、備前堀川、備前前堀川、隼人堀川、姫宮落川、倉松川などがそれに相当する。
 井沢によって干拓された湖沼や溜井は、小針沼(行田市)、屈巣沼(川里町)、小林沼栢間沼(菖蒲町)、
 河原井沼(久喜市)、柴山沼(白岡町)、安戸沼(杉戸町)、黒沼・笠原沼(宮代町)、上瓦葺溜井(上尾市)、
 高沼(さいたま市)、鶴巻沼(深作沼、さいたま市)、丸ヶ崎沼(さいたま市)などである。

 これらの湖沼は溜井として利用されていたものも多かったが、見沼代用水の完成によって新たな水源が
 確保できたので、干拓可能となったのである。開発された新田は鍬下年季(開発後の年貢減免期間で
 3年程度)を経て検地され、面積や石高の確定後に、村の持添新田となり天領に組み入れられることが
 多かった。なお、代替水源を確保できなかった黒沼・笠原沼と高沼は、代替の用水路として、
 それぞれ中島用水路(黒沼笠原沼用水)と高沼用水路が整備されている。これらの用水路は
 見沼代用水と同じく溜井の代用水であり、形態的には見沼代用水のミニチュア版となっている。

(注9)芝川の整備と治水:
 見沼代用水が開削される以前の芝川は、足立郡芝村の沼地(現在の川口市安行領根岸付近)を
 水源として南へ向かって流れ、最後は荒川へ合流する延長6Km程度の短い河川だった。
 近世以前は藤右衛門川(現在は芝川の支川)が、芝川の故道(旧流路)だったとする説もある
 江戸時代中頃の芝川の起点は、八丁堤から約2Km南の地点にあり、芝村に源流があったことから
 芝川という名称が付けられたようだ。その後、見沼溜井の干拓に伴い、溜井の最低標高部に沿って
 掘られた落し(排水路)は、見沼新田が完成すると、新田からの農業排水を受ける悪水路(排水路)として
 再利用された。この見沼中悪水路の下流端が芝川へと繋げられ、現在の芝川の基本が作られた。
 なお、悪水とは用水の対立概念であり、関東地方でよく使われる用語である。
 不要な水を意味し、汚水(水質の悪い廃水)とは異なる。

 見沼新田の排水路である加田屋落(現在の加田屋川)と海老沼落(現在の都市下水路)も
 この時に整備され、芝川へ繋げられた。見沼溜井よりも上流部の芝川も、見沼新田の開発時に
 新規に開削・整備されたものであり、桶川市から流れて来る悪水路(見沼溜井のかつての
 水源の一つ)と繋げられた。この悪水路が西縁と交差する地点(さいたま市本郷町)には、
 砂村伏越樋を設け、西縁の下を芝川を伏越で横断させた。
 また、見沼代用水の計画当初から芝川は舟運に使う計画だったが、八丁堤の付近では
 用水路(西縁・東縁)と排水路(芝川)の標高差は約3mもあったので、これを解消するために
 閘門(水位調節堰)が設けられた。そして芝川の下流部は、充分な排水能力を確保するために、
 以前よりも川幅が広げられた。

 見沼代用水の完成時には、芝川が荒川へ合流する地点には構造物は何も設けられて
 いなかったが、3年後の享保16年(1731)に木造の逆水樋(さかよけとい)が建設された。
 逆水樋とは荒川の洪水が芝川へ逆流してくるのを防ぐための水門だった。
 工事の担当者は井沢弥惣兵衛正房(為永の子)だった。逆水樋は安永6年(1777)の洪水で
 流出してしまったが、不思議なことにそれ以降、再興されることはなかった。
 再び、芝川の末端に水門が建設されるのは、実に約150年後の大正12年(1923)であり、
 これは内務省(現在の国土交通省)による荒川の近代改修によってである。 →現在の芝川

(注10)見沼代用水を巡る広域的な水循環:
 見沼代用水は紀州流の用排水分離型の水路であり、その排水の一部は関東流(伊奈流)の
 葛西用水の加用水として(間接的に)反復利用されている。
 つまり、この二大用水路は大規模な水のリサイクルによって、密接に繋がっているのだ。
 しかし、見沼代用水は上流部の星川共用区間では、用排水分離ではなく用排水兼用である。
 北河原用水を経由して備前渠用水と六堰用水の排水、上星川を経由して六堰用水の排水を
 反復利用している。昭和初期までは関根落が上星川へ合流していたので、
 見沼代用水から取水した用水の一部は見沼代用水へ戻されていた。
 そもそも、見沼代用水は幹線水路の約1/3を占める星川自体が、用排水兼用の河川である。
 なお、北河原用水、備前渠用水、六堰用水は伊奈氏が開削した用水路だが、
 これらの送水形態は、ほぼ用排水が分離されている。

 星川共用区間では、見沼代用水の支川のうち、最もかんがい面積が広い新川用水と
 黒沼・笠原沼用水が分水している。これらからの悪水(見沼代用水から取水され、田んぼで
 使われ不要となった水)は、青毛堀川、備前堀川、備前前堀川、姫宮落川、庄兵衛堀川、
 隼人堀川などの落し(排水河川)を経由して古利根川へと排水されている。
 古利根川は葛西用水の主要幹線(送水路)であり、送水路の役目を終えた後は中川(旧利根川、
 庄内古川)へ落ちる。一方、見沼代用水の主要幹線である星川は、黒沼・笠原沼用水を
 分水した後は、完全な排水河川(下星川)となり、最後は元荒川(かつての荒川)へ落ちる。
 元荒川も最終的に中川へ合流する。中川は埼玉県東部の最低標高部を流れる基幹排水河川であり、
 羽生領用水(葛西用水や見沼代用水と一緒に利根大堰から取水している)の流末も落とされ、
 最終的に中川は東京湾へと排水される。

 星川共用区間の下流では、見沼代用水は用排水がかなり分離されている。
 八間堰(菖蒲町上大崎)から瓦葺伏越(上尾市瓦葺)までの区間では、
 悪水は主に元荒川、野通川綾瀬川へ排水されている。
 瓦葺伏越から下流は西縁と東縁の区間であり、西縁の排水は主に芝川と
 加田屋川へ集められる。加田屋川はさいたま市見沼で芝川の左岸へ合流し、
 芝川は最終的に荒川へ合流する。なお、西縁から分水する高沼用水の排水は
 鴻沼川を経由して荒川へ排水されている。
 東縁の排水も芝川へ排水される区間が多いが、支線である天久保用水と赤堀用水の排水は、
 綾瀬川を経由して中川へ排水されている。

 このように、利根川の瀬替え荒川の瀬替えによって残された旧河道は、農業用水路や
 排水路として再開発され利用されてきた。ただし、上述した様に利根川から取水された水は、
 旧河道を経由して他の水系へ排水されるので、再び利根川へと戻ることはない。
 ともあれ、見沼代用水と葛西用水(見沼代用水と同時期に完成)によって、それまでは
 不可能だった大河川を中心とする統一的な農業水利体系が築かれ、今日の南関東の姿が
 ほぼ完成されたのである。見沼代用水と葛西用水の開削事業は、単に用水路の整備・開発に
 とどまらず、広域的な地域開発だったと言っても過言ではない。

(注11)荒川連絡水道専用水路:
 管渠(パイプ)で延長は約9km。さいたま市大原の天沼揚水機場(西縁用水路の始点から7.7km下流)で
 取水し、同市土屋の荒川左岸へ前田樋管を経由して注水している。
 そして、この水は約8km下流に位置する秋ケ瀬取水堰で再取水される。
 この荒川連絡水路の役割は武蔵水路(都市用水を利根川から荒川へ導水する水路)とほぼ同じだが、
 武蔵水路の延長が14.5Kmなのに対して、荒川連絡水路は見沼代用水路を経由しているので、
 実質的な水路の総延長は46.5Kmと長い。なお、武蔵水路と同様に利根川から取水した水は
 再び利根川へ戻ることはない。

 武蔵水路は利根導水事業によって、昭和40年(1965)に完成したのだが、当初の計画案には
 武蔵水路を建設しないで、見沼代用水を都市用水の送水路として利用しようという案もあった。
 もっとも、都市用水を見沼代用水から荒川へ送水することは、過去に行なわれたことがある。
 東京都の水需要が逼迫した時期があり、1965年から暫定処置として見沼代用水の水を
 武蔵水路へ送水した。これは利根大堰の完成(1968年)まで3年間続いた。

参考文献:  (1)見沼土地改良区史、見沼土地改良区、1988
 (2)見沼土地改良区史
 資料編、見沼土地改良区、1988
 (3)見沼・その歴史と文化、浦和市郷土博物館、さきたま出版会、2000
 (4)埼玉県史
 資料編13、埼玉県、1983
 (5)武蔵国郡村誌、埼玉県、1953-55
 (6)新編武蔵風土記稿、雄山閣、1996
 (7)利根川改修沿革考、内務省東京土木出張所、1928
 (8)水のはなしIII(15.見沼代用水と武蔵水路)、技報堂出版、高橋裕 編、1982
 (9)利根川の水利、新沢嘉芽統・岡本雅美、岩波書店、1985

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