渡船場 (その1)_ | 赤岩の渡し | 本ページの画像は、NIKON COOLPIX 995(334万画素)で撮影しました。 |
所在地: 利根川、左岸:群馬県邑楽郡千代田町赤岩、右岸:埼玉県大里郡妻沼町俵瀬
赤岩の渡しは、利根川の刀水橋と利根大堰(武蔵大橋)の間に残る渡船場。
埼玉県の人々は、葛和田(くずわだ)の渡しと呼んでいる。
この渡しは、県道83号熊谷・館林線の一部であり、橋ではなく船による県道ということになる。
実際の管理運営は、群馬県からの委託事業として、千代田町がおこなっている。
なお、妻沼町では夏祭りのイベントとして、大杉神社のあばれ御輿が行われる。
古くから続くこの神事は、水運の安全を安波(アンバ)様に祈願したものである。
右岸堤防の裾から150m南に鎮座する神明神社には、大杉神社(安波様)が合祀されている。
神明神社には明治時代の仕様)が刻まれた、几号の水準点(測量用)も設置されている。
埼玉県の利根川沿線で数多く確認できる標石だが、設置年と設置目的は不明であり、
わかっているのは、埼玉縣が設置したらしい(標石に刻まれている)ことだけだ。
赤岩・葛和田の渡しの歴史は古く、永禄年間(1560年頃)に上杉軍の渡河に使われたと
いう記録も残っている。江戸時代には周辺地域の年貢の積み出し港として栄え、
葛和田河岸と称されていた。河岸場は明治時代初期になっても、かなりの規模があった。
明治9年(1876)に編纂された武蔵国郡村誌の幡羅郡葛和田村(10巻、p.290)には、
日本形帆走船八艘(百石から百五石積まで)が記載されている。
日本形帆走船とは俗にいう高瀬船のことで、百石積だと米俵(60Kg)が250俵も積めた。
鉄道の開通に伴って周辺地域の陸運が発達したために、葛和田河岸は昭和初期には
廃止となったが、渡しは地域の生活道路として現在も運営されている。
↑妻沼町葛和田の付近 石碑が2つ。左が堤防拡張碑(昭和39年)、 右が刀江改修碑(大正3年)。刀江とは 利根川のこと。ともかく、利根川の 右岸堤防に沿って県道を進む。 |
↑埼玉県側から対岸の群馬県千代田町を望む ここが葛和田の渡し(埼玉県側なので...) 利根川の堤防間の距離はおよそ700m。低水路(普段、 水が流れている部分)の幅は約400mと巨大だ。 渡ってみたいけど、遊びで訪れたので渡船は自粛(^^;) 案内板には、県道なので渡船運賃は無料、 運行時間 4月1日〜9月30日 午前8時30分〜午後5時 10月1日〜3月31日 午前8時30分〜午後4時30分 とある。 ちなみに、赤岩渡船の歴史は古く、戦国時代の1560年頃、 上杉謙信に関する文献にも登場するという。ただし渡河形態が 舟だったのか、徒歩渡り(かちわたり)だったのかは不明である。 なお、渡船場の左岸側は昭和30年(1955)まで群馬県邑楽郡富永村、 右岸側は昭和29年(1954)まで埼玉県大里郡秦村だった。 大正時代に設置された、富永村と秦村の道路元標は 渡船と同様、今もなお残っている。 |
↑河川敷内にあるバス停(葛和田) 船を呼ぶ方は、中央のポールへ旗を 揚げて下さい、とある。えーっ! そんな古風な通信方法かい。 |
↑千代田町赤岩 動力船の千代田丸が繋留されていた。 運行している船は、2隻だそうである。 写真の右上に見えるのは、対岸の福川水門。 |
↑水神宮(千代田町赤岩) 繋留地付近の河川敷内にある。河岸場や 渡船の関係者が舟運の安全を祈願して 祀ったものだろう。 私は現地に着くまでは、昔ながらの長い竹竿を 使った渡しを想像していたが、利根川の大きさに 直面して、そんな妄想(笑)は吹き飛んだ。 あの川幅を人力で渡すなんて、自殺行為だよん。 |