越辺川 - 道場橋から落合橋 [越辺川のページ一覧]
撮影地:埼玉県坂戸市、川島町、川越市 越辺川
(注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 995 (334万画素)で撮影しました。
↑道場橋の付近(上流から) 左岸:川島町上伊草、右岸:坂戸市横沼 道場橋(どうじょう)は県道269号上伊草坂戸線の 道路橋(昭和56年竣工)。武蔵国郡村誌によれば、 明治初期の時点では、この付近には橋はなく、 代わりに渡し(注1)が設けられていた。 道場橋の下流右岸には横沼河岸(船着場)もあった。 道場橋から眺める越辺川は適度に蛇行し、岸辺には 鬱蒼とした河畔林が分布する。道場橋の左岸側の 河川敷には運動広場もあるので、水辺に親しめる。 ここから下流へ300mの左岸には昭和樋管(揚水機場を 併設)が設けられ、川島町の水田へ用水を供給している。 |
↑大川堤遺跡(右岸から) 坂戸市横沼 昭和初期までは、越辺川のような中規模の河川だけでなく、 荒川でさえも現在のような連続堤防は施されていなかった。 越辺川の堤防は道場橋の付近では、霞堤となっていたようだ。 霞堤とは堤内の一部を遊水池とすることを前提とした、不連続で 所々が分断された堤防のこと。下流部に設けられるのは珍しい。 これを憂いた地元の大川平三郎(注2)は、大正13年(1924)に 私費で約1.1Kmもの堤防(俗に大川堤)を建設した。道場橋の 下流右岸の堤防裾(川裏)には、大川氏の功績を顕彰した碑が、 三芳野地区河川改修期成同盟会によって、昭和36年に 建立された。なお、大川堤は現存しない。 その跡地は右岸堤防に並行した農道となっている。 |
↑大谷川の合流(右岸上流から) 坂戸市紺屋 道場橋から下流へ1Kmの右岸へ大谷川(おおや)が 合流する。鶴ヶ島市から流れてくる普通河川だ。 合流地点に設けられているのが大谷川樋門。 大谷川樋門はローラーゲート(幅5.3m、高さ5.2m)が 4門装備され、うち3門は自然排水用である。 樋門には排水機場が併設される予定のようで、 付近には工事用の杭が設置されている。 |
↑大谷川合流付近の河道(上流から) 左岸:川島町下伊草、右岸:坂戸市紺屋 根固めにテトラポッドが大量に設置されている。 穴場なのだろうか、こんな所でも釣り人が糸を垂れている。 なお、左岸の堤防は明治43年(1910)8月の大洪水で、 数箇所が破堤している。左岸堤防の裾には、そのことを 記した九頭龍大権現が、2箇所に祀られている(明治45年に 地元有志が建立)。九頭龍とは水防祈願の水神である。 |
↑原次郎先生治水彰功碑 川越市福田 落合橋の上流右岸、小畔川の導流堤(越辺川の 右岸堤防)に越辺川を見守るように建っている。 これは入間川、越辺川、小畔川の河川改修に尽力した、 三芳野村(坂戸市紺屋)出身の民間人 原次郎の功績を 称えた碑。真摯渾命の努力と記されている。上述の 大川堤と同じく、越辺川の歴史を辿ると、近年まで治水は 国や県ではなく、民間の力によって進められた部分が 多いことがわかる。ちなみに落合橋は入間川、越辺川、 小畔川を跨いでいる。 |
↑落合橋の上から撮影(下流から) 右岸:川越市平塚新田、左岸:川島町下伊草 越辺川の河道には、旧落合橋の橋脚と思われる木杭が、 かなりの数残っている。落合橋は昭和36年(1961)まで 木の橋だった。落合橋からは右岸堤防越しに小畦川が見える。 右上隅の建物はヘリポートのようである。 なお、落合とは川の合流地点のことで、江戸時代以前には 現在の落合橋の上流で小畦川が越辺川に、越辺川が入間川へ 合流していた。しかし、堤防は現在のように連続ではなく、 霞堤に近く、周辺部は遊水池だった。 |
(注1)左岸の上伊草村と右岸の横沼村を結ぶ道場の渡しである。
そして渡船は大正初期には廃止され、新たに架けられた道場橋は
木造の冠水橋だった。架橋地点は現在よりも約200m上流の旧流路である。
この冠水橋は現在の道場橋が建設された昭和56年(1981)まで存続した。
ちなみに、道場とは江戸時代に横沼村で、大川平兵衛が剣術の道場を
開いていたことに由来する。三芳野小学校の東側にその跡地がある。
大川平兵衛は熊谷宿の渡辺家の生まれで、横沼村の大川家の婿養子となった。
神道無念流の免許皆伝であり、川越藩の剣術師範などを努めた。
(注2)に記した大川平三郎は、平兵衛の孫である(坂戸市史 通史編II、p.136)。
三芳野小学校の校門前には、伊勢物語の在原業平の東下りの
一節の歌を記した歌碑が建てられている。歌枕にある、
[いるまの郡みよしのの里]に因んで、この付近はかつて三芳野村と称していた。
明治22年に入間郡横沼村、小沼村、青木村、紺屋村、中小坂村が
合併して、入間郡三芳野村は誕生し、昭和29年に坂戸町へ合併するまで
存続した。三芳野村の村域には白髭神社が多く分布している。
この神社は高麗郡に顕著なので、日高市の高麗神社と関係が深いのだろう。
なお、みよしのの里の比定地は、入間郡だけでも数10箇所に及んでいる。
近隣では川越市的場・上戸地区(旧.名細村)、入間川を挟んだ対岸の
川越市小ヶ谷(旧.田面沢村)も、みよしのの里を標榜している。
道場橋の付近だけでなく、落合橋の付近にも渡しがあった。
これは俗にいう伊草の渡(または落合の渡)である。伊草の渡は河岸場も兼ねていて、
往時は舟運と荷降しで賑わったそうだ。伊草河岸を中心として宿場も形成された(伊草宿)。
伊草宿の面影は旧道(川越松山往還)に現在もわずかだが残っている。
道場橋から下流へ300mの左岸には、伊草神社(村社)が位置するが、
その参道付近には、伊草渡と記された木製の道標(道しるべ)が今も建てられている。
この付近が旧比企郡伊草村(1889-1954年)の中心部であり、川越松山往還の
交差点には大正時代に設置された伊草村の道路元標が今なお残っている。
伊草神社にはスギやケヤキからなる見事な社叢林があり、
埼玉県の[ふるさとの森]に指定されている。
なお、伊草神社の境内には、昭和初期の越辺川改修のさいに
設けられたと思われる測量の水準点(No.1、埼玉縣、花崗岩製)が
残っている。同様の水準点は入間川や小畦川の周辺にも見られる。
(注2)大川平三郎は万延元年(1860)に入間郡横沼村(現在の坂戸市横沼)に生まれた。
母が尾高惇忠(官営富岡製糸工場の初代工場長)の妹であり、平三郎は渋沢栄一の甥にあたる。
大学南校(のちの東京大学)で学んだ後、米国に留学し、帰国後には
稲ワラパルプの製法を発明、我が国最初の木材による化学パルプの製造に成功した。
また、大正9年(1920)に武州銀行が設立されると、頭取に迎えられた。
財を成してからは地元へ多額の寄付を施した人物であり、坂戸市横沼の勝光寺、
三芳野小学校(私費を投じて校舎を建設した)などに頌徳碑が建てられている。
なお、大川平三郎の私費を基に、小畔川の堤防建設などを実行したのが
原次郎である。原が設立した入間川水系改修期成同盟会は今も残り、
[地域を守るのは地域の住民]という精神が受け継がれている。