煉瓦の街・深谷
埼玉県深谷市(ふかや)は、埼玉県北部に位置する利根川と荒川に囲まれた、
人口約10万の地方都市である(上野駅からJR高崎線で約80分、特急で1時間)。
深谷ねぎ(日本一の出荷量。白い部分が多いので根深とも呼ばれる)で有名だが、
意外にもチューリップ(切り花)の生産量も日本一である。
また、ガリガリ君の生産量も日本一である(笑)
市域(特にJR高崎線よりも北部)には、古い火の見櫓が非常に多く、約40基も現存している。
深谷市では「赤レンガを活かしたまちづくり」を推進していて、JR深谷駅、深谷市総合体育館、
浄化センター、はては温水プールまでもが、煉瓦造りの外観をしている。(@_@;)
また、「深谷市レンガのまちづくり条例」というのが制定されていて、
深谷市内に煉瓦調の建築物を新築すると、市から奨励金が交付されるそうである。
深谷市の煉瓦物語は古い歴史を持ち、明治20年(1887)に始まる。
日本初の機械方式による煉瓦工場、日本煉瓦製造会社がこの地に設立されたのである。
創設者は深谷市血洗島(ちあらいじま)出身の実業家・渋沢栄一(1840-1931)。
それまで日本の主要建材であった木や石に対して、重厚で堅牢な赤煉瓦は、
日本の近代化を象徴するものであった。以後、日本煉瓦製造の赤煉瓦を使った近代建築物が、
日本中に数多く作られることになる。つまり、深谷市の土(正確には、小山川と利根川が堆積させた
粘土と砂)は、煉瓦に形を変え、全国のあらゆる所に分布しているのだ。
ねぎとチューリップの生産量が日本一なのも、やはり土が良いのだろう。
一方、深谷市内には中山道の宿場町の面影と共存する形で、明治から大正期に建てられた
煉瓦造りの住宅、工場が数多く残っている。意外な場所に煉瓦で造られた意外なモノまで存在する。
これが深谷市が煉瓦の街を標榜する所以でもある。
さらに平成11年には、東京都世田谷区にあった渋沢栄一ゆかりの建造物、
誠之堂(大正5年建設、煉瓦造り、設計:田辺淳吉)と
清風亭(大正15年建設、鉄筋コンクリート造り、設計:西村好時)が、
深谷市の大寄公民館の敷地へ移築された。
これらは取り壊しの危機に瀕していたものである。新たな煉瓦物語がまた始まった。
←JR高崎線の深谷駅 なんと、JR東京駅にそっくり! というのは、東京駅に使われた煉瓦は深谷市の日本煉瓦製造(株)で 作られ、深谷駅から送り出されたのに因んでだという。 ただし、日本煉瓦製造の煉瓦は構造用として(800万個)、東京駅の 内部に使われている。表面の赤煉瓦は品川煉瓦や大阪窯業のもの。 深谷駅は平成8年(1996)竣功、総工費は35億円。 地方交付税、大盤振る舞いのような気もするけどね(^^;) 東京駅と違って深谷駅は橋上駅なので、不便なことに、 橋を上って改札を済ませてから、再びホームに降りなければならない。 駅舎は一見すると煉瓦造りだが、内部はコンクリート造りで、 外装に赤煉瓦の化粧パネルを貼ってある。内装は結構プアだ。 しかし、青銅製の街灯には文明開化の雰囲気が漂う。 深谷駅には、現・東京駅では消失してしまったドームも付けられている。 深谷駅に関しては、もう一つエピソ−ドがある。 1966年の荒船清十郎(運輸大臣)の引責辞任である。 地元選挙区の深谷駅に急行を停車させるよう、 当時の国鉄に働きかけたことによる。 |
←渋沢栄一の銅像 JR高崎線の深谷駅の北口、青淵広場の中に建てられている。 和服を着て、南(東京の方角)を見つめる姿だ。銘板には、 「青淵 渋沢栄一像」と刻まれている。 渋沢栄一は、第一国立銀行(現.第一勧業銀行)の創設に尽力し、 頭取も務めた。また、日本鉄道(現.JR東日本)、上武鉄道(現.秩父鉄道)、 東京ガス、王子製紙等を含め500社以上の設立に関係した。 東京商工会議所と東京証券取引所の設立にも関与している。 これが日本近代資本主義の父と称される理由のひとつだ。 深谷市内には、渋沢栄一ゆかりの建物、渋沢国際会館、青淵記念館、 渋沢栄一記念館などが建設されている。中の家(なかんち)と呼ばれ、 広大な敷地を有する生家(深谷市血洗島)では、地方の豪農の生活ぶりが偲べる。 一方、渋沢栄一記念館の脇には、洋服を着た銅像が北(利根川の方角)を 見つめる形で建てられている。渋沢栄一は城山三郎の小説[雄気堂々]の 主人公でもある。ちなみに、渋沢栄一は映画[帝都物語]にも登場する(笑)。 栄一の甥の渋沢元治は、名古屋帝国大学の初代総長である。 |