奈良石

 所在地:群馬県邑楽郡明和町須賀420

 昭和橋(利根川)から上流へ500m、利根川の左岸堤防の川裏中腹に設けられている。
 河川占有許可上は、利根川水害民救済記念碑という無粋な名称だが、
 一般的には奈良石と呼ばれている。利根川の水害被災地である須賀村の村民が、
 義捐金や食料を送ってくれた武州奈良村(現在の埼玉県熊谷市)の名主に対して、
 感謝を表し建てた石碑。天保13年(1842)6月建立。

 碑文は漢字仮名交じりの草書体で書かれ、碑文のある面が対岸(埼玉県側)に向いている。
 碑文によると、文政6年(1823)から文政8年にかけて利根川の洪水が相次ぎ、
 ここ須賀村では堤防が切れ、田畑だけでなく家屋も押し流され、自力での復旧が
 不可能なほどに困窮していた。その時、武州旛羅郡下奈良村(現在の埼玉県熊谷市下奈良)の
 名主 吉田市右衛門が難民の救済のためにと、金や食料を送って助けてくれた。
 須賀村の民は市右衛門の尊い行為に対して深く感謝し、天保13年6月(災害から約20年後)、
 この奈良石を建てた。とある。

 明和町の人々は今でもあの時の恩を忘れずに、吉田家の墓がある熊谷市下奈良の
 集福寺に墓参りをするそうである。なお、明和町南大島にある、三五詠歌碑(天保4年建立)も
 吉田市右衛門の高徳を顕彰して建てられたものだという。

 吉田市右衛門は下奈良村の名主で慈善家。五代200年にわたり代々、市右衛門を名乗ったが、
 奈良石の市右衛門は三代目の宗敏。熊谷市の各所に市右衛門橋という名の橋があるそうだが、
 それらは吉田市右衛門が私財を投じて、木橋を石橋に架け替えたことに由来するのだという。
 また、三代目の宗敏は天明三年(1783)の浅間山の大噴火によって、水路が火山灰や土砂で
 埋没してしまった備前渠用水の復興のために奔走し、金200両もの大金を寄付している。
 備前渠用水の河畔に建てられている備前渠再興記(天保四年:1833)の碑文には、
 宗敏への感謝が淡々と綴られている。

 吉田家は大地主ではあったが、その莫大な資産は多角的な事業によって築き上げられたの
 だという。地元では金融業や酒造業を営み、さらに江戸に11軒もの町屋を所有し、それらからの
 地代や店賃から生じる収入が大きな比率を占めていた。→埼玉県史 通史編4、p.515-519
 武州下奈良村では名主(村役人でも身分は百姓)だが、江戸では町人(江戸に土地を持つ)と
 いう生活を送っていたことになる。
 なお、新編武蔵風土記稿の旛羅郡下奈良村(11巻、p.224-225)には、
 褒善者 吉田市右衛門として善行が2ページに渡って記述されている。

 利根川の左岸堤防上から
↑利根川の左岸堤防上から
   奈良石
  ↑奈良石

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