昭和橋

 場所:利根川、左岸:群馬県邑楽郡明和町川俣、右岸:埼玉県羽生市上新郷
 形式:ランガー橋(13スパン:左岸から鋼桁1連+鋼ランガー7連+鋼桁5連)
 建設:昭和37年(1962)5月  長さ660m(主径間の最大スパン長67m、幅7.5m)

 昭和橋は国道122号線が利根川を横断する地点に架かる橋。群馬県側から見れば、
 利根川に架かる最下流の道路橋(一般道)ということになる。
 江戸時代、この往来は日光裏街道とも呼ばれ、利根川には川俣関所が設けられていた。
 関所跡は利根川の河川改修によって水中に沈んでしまったが、羽生市側の橋詰には
 史跡址の碑が建てられている。また、昭和橋の下流200mの利根川右岸堤防には、
 川俣締切跡(埼玉県指定史跡)がある。川俣の締切とは、利根川の主流のひとつであった
 会の川江戸時代初期に羽生市川俣の付近で(水が流れないように)締切った工事である。
 これが利根川の瀬替え(以後、昭和初期まで続く利根川東遷事業)の発端とされる。
 なお、川俣という地名は川がいくつかに分岐している地点に、よくある地名であり、
 反対に川が合流する地点に顕著な地名は落合となる。

 昭和橋の架橋地点には重要な街道が通るのだが、昭和になるまで永久橋は架けられず、
 渡し(渡船)や船橋(船を並べて橋としたもの)に頼っていた。この渡しは埼玉県では川俣の渡し、
 群馬県では富士見の渡しと呼ばれていた。昭和橋の右岸橋詰には渡船関係者が
 舟運の安全を祈願して(銘文あり)
天保三年(1832)に祀った、水天宮が今も残っている。
 渡しに代わり、最初の船橋が架けられたのは明治23年(1890)である。
 
これは川俣橋と呼ばれる賃取橋(有料)であり、川俣架橋合資会社が建設した
 (→群馬縣邑楽郡誌、1917、p.973-974)。なお、昭和橋の左岸に位置する明和町川俣は
 川俣事件(1900年2月13日)の勃発地である。明治時代後期、足尾銅山の鉱毒問題を訴えるために、
 東京への押し出し(請願行動)を決行した農民が警官隊と衝突したのが、川俣橋の付近であった。

 最初の昭和橋は昭和4年に架けられたが、木の橋であったため、昭和22年のカスリーン台風で
 大破してしまった。その復旧として、昭和24年に4連の曲弦トラス橋が架けられたが(→参考文献)_、
 側径間は木橋のままであった。現橋は、その橋を全面改修したもので、昭和37年に建設された。
 なお、曲弦トラス橋が架けられた当時、右岸側の上新郷地区は、まだ羽生町とは合併しておらず、
 北埼玉郡新郷村であった。新郷村の道路元標が今なお残っている。

 昭和橋
↑昭和橋 (右岸上流から)
 昭和橋の7つのアーチは虹色に塗られている。
 国道122号の交通渋滞緩和のために、
 下流側には新しい橋を建設中。
   側径間の鋼桁
  ↑側径間の鋼桁 (右岸上流から)
  プレートガーダーには、モーメントプレートが付けられている。
  橋台には竣功銘板もあり、それによると建設したのは鹿島建設。

 主径間のランガー
↑主径間のランガー(上流から)

   利根川と昭和橋
  ↑利根川と昭和橋 (上流から)

(参考文献) 日本の橋(増訂版)、日本橋梁建設協会、朝倉書店、1994、p.115


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