備前渠用水 (びぜんきょ) (妻沼町の区間〜終点まで) [備前渠用水のページ一覧]
撮影地:埼玉県大里郡妻沼町
↑水路の様子(上流から) 妻沼町永井太田、下橋の付近 橋や堰の周辺では、水路に護岸が施されているが、 それ以外の区間は素掘りのままである。護岸は コンクリートではなく、石積みが多い。 この付近では左岸へは間々田用水や沖田用水、 右岸へは原井用水が分水している。左岸へ分水した用水の 流末は男沼悪水路を経由して、利根川へ排水される。 一方、右岸の流末は妻沼町の東端で福川に落ちる。 この水は、北河原用水や羽生領用水の水源となっている。 |
↑備前渠再興記碑公園 妻沼町八木田、芝橋の右岸下流 備前渠再興記は、天保4年(1833)に建立された。 備前渠用水に関する最も古い石碑である。再興と題されているのは、 備前渠用水は廃止されていた期間があるからだ。(注) 原碑(写真右)の碑文が風化・剥離してしまったので、 平成6年に復刻し(写真左の碑)、付近を公園として整備してある。 上流にある第4堰からは左岸へ悪戸用水が分水している。 悪戸用水の流末は芝川へ落ち、道閑堀を経て福川へ排水される。 |
↑備前渠用水 第8堰(上流から) 妻沼町八木田〜弥藤吾 国道407号妻沼バイパスから東へ100mの地点。 第8堰は備前渠用水の幹線に設けられた最下流の 取水堰。左岸へ王子用水を分水する。この付近になると、 周辺には民家が多くなる。 |
↑観清寺堰(上流から) 妻沼町弥藤吾 県道341号熊谷妻沼線から東へ150mの地点。 王子橋の右岸上流に設けられた観清寺堰は備前渠用水の 余水を旧福川へ放流している。備前渠用水の幹線水路は ここから500m下流の妻沼高校の付近で、さらに3派へと 分かれ、都市排水路を兼任している。 |
↑観清寺堰下流の水路(上流から) 妻沼町弥藤吾 幹線水路から分岐した排水路(余水や悪水を放流)。 下流の観清寺の付近は竹薮だが、この付近の両岸は 雑木林となっている。素掘りの水路はたぶん開削当初から のままであろう。この水路はここから200m下流で 旧福川へ落ちる。 |
↑流末の一つ 妻沼町上須戸 妻沼高校の付近で3派に分岐した幹線の一つは、 長井第一揚水機場で長井用水へ転用されている。 揚水機場の余水は、さらに道閑堀を経由して福川へ放流される。 写真の左側が道閑堀、右側が流末の一つ。 中央奥が福川の左岸に設けられた道閑堀排水機場。 |
(注)寛保の大洪水(1742年)によって烏川の流路が変動してしまったこと、
天明の浅間山大噴火(1783年)によって溶岩流が堆積して、利根川の
河床が上昇してしまったこと、などが原因となって、備前渠用水の
元圦(取水口)は土砂の流入が激しくなり、遂に埋没してしまった。
幹線水路にも土砂が流入堆積し、水路の底高が7尺(約2.1m)も
高くなってしまった箇所もあった。このことが原因となり、利根川が増水すると、
備前渠用水に流れ込んだ水はすぐにあふれ、周辺地域は頻繁に水害に
みまわれるようになった。また、備前渠用水の底高が高くなって
しまったことから、用水の取水・流下に障害を起こし、
平常時には用水の不足が顕著となった。
備前渠用水の治水と利水を巡って、紛争や水論(水争い)が頻発した。
例えば悪水被害に苦しむ榛沢群牧西村外十三ヶ村は、天明八年(1788)に
奉行所へ備前堀の落口の閉鎖を願い出ている(埼玉県史 資料編13、p.236)。
このような事態となってしまったため、寛政五年(1793)には幕府の命により、
備前渠用水の元圦は閉鎖されてしまった。
これは事実上の取水禁止であり、代替用水路として本庄市や上里町の湧水を
水源とする仙南堀が使われたが、用水不足は顕著だった。
備前渠用水が再興するのは、閉鎖から35年後の文政十一年(1828)である。
これは時の勘定奉行 遠山左衛門尉景普(遠山の金さんの父親)の裁量による。
領民の貧窮をお上に訴え、用水の再興許可を懇願したのが、吉田市右衛門。
武州旛羅郡下奈良村(現在の埼玉県熊谷市下奈良)の名主、吉田市右衛門は
備前渠用水の復旧工事に日夜奔走し、多額の金を幕府に寄付するなど献身的に尽力した。
一端、幕府に上納された金は、幕府がほかに貸し付けて、その利子を復旧工事の資金とした。
市右衛門は当世きっての慈善家であり、文政六年(1823)の洪水で
困窮していた上州須賀村(現在の群馬県邑楽郡明和町須賀)にも
援助の手を差し伸べている。昭和橋(利根川)上流の左岸堤防の裾には、
そのことに感謝を表して、須賀村民が建立した顕彰碑:奈良石(天保十三年建立)が残っている。