利根川 (昭和橋〜東武伊勢崎線 利根川橋梁の付近) [利根川のページ一覧]
左岸:群馬県邑楽郡明和町、右岸:埼玉県羽生市
↑昔の木杭(右岸から) 行田市須加 武蔵大橋(利根大堰)と昭和橋の中間付近に残っている。 おそらく、昔の水制工だろう。水の勢いを弱めて岸辺を 守る、水の流れる方向をコントロ−ルする等のために 設けるもの。写真は右岸堤防の上からだが、奥(左岸)には 上州の雄大な山並が広がる。この付近にも、かつては 渡し場(注1)があった。なお右岸の雷電神社には、 古い様式の几号水準点(埼玉縣、No.29)が残っている。 |
↑河川敷の中にある鳥居(右岸から) 行田市須加 ゴミの不法投棄を抑止するために設けられているそうだ。 意外に心理的な効果があるという。神様に対しては 無礼な行為は慎むということなのか。でも少し離れた場所には、 大量にゴミが捨てられている。ということは、イタチごっこで、 利根川の河川時期は近いうちに鳥居だらけになる? なお、右岸堤防の裾にある阿弥陀堂には、 文久二年(1862)建立の芭蕉の句碑がある。 |
↑川俣関所跡(右岸から) 羽生市上新郷 昭和橋の右岸橋詰にある。関所は上新郷にあったの だが、名称は対岸の川俣が使われている。江戸時代、 この往来は館林道(日光裏街道)と呼ばれていた。 川俣の関所は明治2年(1869)まであったが撤去され、 跡地は今は利根川の底である。現在残るのは、この 石碑のみだ。ただし、昭和橋の右岸には旧道に沿って、 往事を偲ばせる見事な松並木(通称.勘兵衛松)が 残っている。関所が設けられていたので、昭和橋が 架かるまで、対岸との往来は渡船(注1)だった。 珍しいものでは、昭和橋から上流へ500mの左岸 堤防には奈良石(水害民救済碑)-天保13年(1842) 建立がある。また、昭和橋の両岸には几号の付いた 古い水準点が残っている。右岸の白山神社には、 (埼玉縣、No.7)、左岸の粟島神社には (群馬縣、川俣基標)がある。利根川沿線に数多く 残る謎の水準点だ。 |
↑昭和橋付近の利根川(右岸から) 羽生市上新郷 両岸の堤防間には幅約600mもの広大な河川敷が展開する。 遮るものが何もないので、1.5Km下流にある東武伊勢崎線の 利根川橋梁まで見渡せる。昭和橋から100m下流の右岸堤防の 裾には、川俣締切跡(埼玉県指定史跡)がある。 これは近世初頭まで利根川の派川だった会の川を、 文禄3年(1594)に締め切った跡地だが、石碑と〆切神社が 建っているだけで、他には何もない。 会の川の締切りは、利根川東遷事業の発端とされている。 なお興味深いことに、この付近では両岸に人柱の伝承がある。 羽生市本川俣の千手院付近、千代田町下中森の長良神社付近、 明和町須賀の菅原神社(注2)に逸話が残っており、 どれも上人が利根川の洪水を鎮めるために、 自ら人柱になったというものである。 川俣締切跡にある〆切神社も人柱の供養だという。 |
↑利根川橋梁付近の利根川(下流から) 右岸:羽生市上川俣、左岸:邑楽郡明和町川俣 大河の風格を見せつけて流れる利根川。利根川の両岸に 川俣という地名が残っているが、これはかつての利根川は 一つの流れではなく、この付近では乱流して幾筋にも 分かれていた証しでもある。対岸(左岸)の明和町川俣は、 川俣事件の勃発地である。明治33年(1900)、足尾銅山の 操業停止を求めるために東京での請願に出かけようとした 農民達は、川俣の渡しで待ち伏せた憲兵隊と衝突し、 多くの犠牲者が出た。なお、昭和橋の付近から下流の 利根川橋(東北自動車道)までの約8kmの区間(右岸側)は、 昭和32年から40年度にかけて約120m引堤がなされている。 |
↑利根サイクリングロード(右岸堤防から) 羽生市本川俣 堤防上には利根サイクリングロードが整備されている。 行田市と加須市にはサイクルセンターがあるので、自動車で サイクルセンターまで乗りつけ、自転車を借りれば、お気軽な サイクリングが楽しめる。なお、この付近の右岸堤防の裾には、 葛西親水公園(葛西用水の元圦跡)と東武伊勢崎線の 煉瓦トンネル(通称.お化けトンネル)がある。 かつて葛西用水の元圦は東武伊勢崎線の利根川橋梁の 下流にあった。利根川橋梁の存在によって、下流側には 大きな州が形成され、右岸にあった葛西用水の元圦は 堆砂によって埋まり、取水機能が低下した。 その賠償を巡って、訴訟問題にまで発展したことがある。 |
(注1)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)と上野国郡村誌(明治22年発刊)によれば、
利根川には須加村(現.行田市須加)と上新郷村(現.羽生市上新郷)に渡しがあった。
須加の渡し:”利根川渡、行田道に属し村の北方 利根川の中流にあり 渡船二艘 私渡”
対岸の邑楽郡下中森村(現.千代田町下中森)では、長良の渡しと呼ばれていた。
須加の渡しは上流に利根大堰(武蔵大橋)が建設されたことで、廃止となった。
上新郷の渡し:”渡、館林道に属し村の北方 利根川下流にあり 馬渡船二艘 人渡船一艘 私渡”
対岸の邑楽郡川俣村川岸(現.明和町川俣)では、富士見の渡しと呼ばれていた。
上新郷の渡しは、川俣の関所が設けられていたほどの地点なのに、なぜか官設ではなく
私設の渡しである。昭和橋の右岸橋詰には渡船関係者が舟運の安全を祈願して
天保三年(1832)に祀った水天宮が、左岸橋詰の粟島神社には、川俣河岸渡船六人建立と
銘のある文政十一年(1828)の水天宮が今も残っている。
なお、明治23年(1890)には、川俣橋と呼ばれる船橋(仮設橋)が架けられたが、
渡船は廃止されることなく、そのまま存続していたようである。
昭和橋右岸の勘兵衛松の中には、俳人 川島奇北の句碑(昭和11年建立)が立つが、
その句は”二歳駒買れて来たり春渡船”である。若い馬が馬渡船に乗せられて、
運ばれて来る様子を呼んだものだ。川島奇北は本名:川島徳太郎。
慶応二年(1866)に須加村(行田市須加)に生まれ、須加村村長、県会議員などを歴任している。
俳句は正岡子規と高浜虚子に師事している。
(注2)明和町の菅原神社の付近は水害常襲地帯だったようで、神社の境内には
水に関する石造物が数多く祀られている。例えば、明和三年(1766)建立の水神、
弁財天、慶應元年(1865)建立の九頭龍大権現(戸隠山)などである。
文政十三年(1830)建立の道祖神(文字塔)もある。菅原神社の鳥居は
元文元年(1736)に慶讃上人(利根川の洪水を治めるためにのちに人柱となった)が
献納したもの。柱には上人の祈願文が刻まれている。
なお、邑楽郡には千代田町から板倉町にかけて、利根川の沿線に長良神社が
数多く分布するが、その祭神は水神であり、藤原長良の龍退治の伝説に因む。
利根川の右岸側には長良神社は少ないが、羽生市には本川俣と弥勒地区に
長良神社が存在する。本川俣の長良神社は葛西用水の元圦跡から400m下流の
地点にあり、洪水除けの神社とされている。境内には寛政7年(1795)建立の
水神宮の祠や琴平神社、宝暦5年(1755)の道祖神などが祀られている。
なお、寛政6年(1794)建立の松平大和守生祠には、天明6年(1786)に起こった、
利根川の大洪水の様子が記述されている。この洪水は浅間山の噴火が直接の原因である。
天明3年の浅間山の噴火に伴い、利根川へは溶岩流の流入や火山灰の散飛が大量にあり、
その結果、利根川は河床が高くなり、水が流れにくくなってしまった。
加須市水深にある寛政三年(1791)建立の石橋供養塔(青毛堀川の河畔)にも
降砂洪水と称し、天明3年の浅間山の噴火とその後の洪水の様子が
追刻されている