瓦葺掛樋 (その2) (その1)
↑瓦葺掛樋の跡(上尾市、瓦葺掛樋公園内) 掛樋に接続する旧水路(見沼代用水)の 側壁部分の遺構(長さは約20m)。 水路は漸拡(徐々に幅が広くなる)だが、 平面形状は直線でなく曲線になっている。 旧水路の左岸側(写真右方向)の側壁は、 撤去されてしまった。 |
↑側壁部分の詳細(蓮田市、旧水路の左岸側) 写真の左端が樋との接合部。手前が旧水路の側壁。 側壁は下段方向が厚くなっている。これは、土圧に 対する抵抗を大きくするための根積みと呼ばれる構造。 庄兵衛堰枠(白岡町、庄兵衛堀川)、永府門樋(吉見町、 市野川用水)でも根積みが見られる。 なお、煉瓦の平の面には 機械成形の跡と刻印(上敷免製)が確認できる。 |
↑改修記念の石碑(蓮田市、瓦葺伏越の呑口付近) 左が懸樋修繕碑記(大正5年建立) 右が改修懸樋碑記(明治43年建立) |
懸樋修繕碑記は明治43年の大洪水で破壊された掛樋の修復を記念したもの。 碑文には洪水によって橋台の一部が倒壊したと記されている。 この洪水では見沼代用水の堤防はいたる箇所で決壊し、 この地点から4.5Km上流の蓮田市閏戸でも破堤している。 その結果、洪水流は一気に綾瀬川に押し寄せ、 綾瀬川の急激な増水によって、瓦葺掛樋は破壊された。 改修懸樋碑記は煉瓦掛樋の竣工を記念したもの。 碑文によると、工事の起工は明治40年4月で、竣工は明治41年3月である。 不思議なことに、かんがい期間中に工事をおこなっている。 しかも、総煉瓦数25万個の割には、かなりの工期を要している(総煉瓦数が 67万個である見沼代用水元圦は5ケ月で竣工)。この年の8月には 大規模な洪水が発生し、利根川や荒川が破堤したのが影響しているのだろう。 改修懸樋碑記には、正面の碑文と背面の関係各位名の2ケ所に、 瓦葺掛樋の設計者名として、埼玉県技師、島崎孝彦の名が記されている。(→注) なお、瓦葺掛樋を施工したのは、不動岡村(現.加須市不動岡)の田村組。 加須市の総願寺(不動ヶ岡不動尊)の黒門は、忍城(行田市にあった城)の 城門を移築したものだが、これも田村組の田村重兵衛がおこなった。 門柱に寄進者 田村重兵衛と彫り込まれている。 |
(注)工事設計及監督 埼玉県技師 島崎孝彦 工事主任 北足立郡技手 遠山貞吉 工事監督 組合技術員 石川定次郎 島崎孝彦(明治10年1月 高知県に生まれる) 明治31年 第三高等学校工学部土木科を卒業後、埼玉県に入庁。明治41年 土木課長。 明治44年 朝鮮総督府技師、大正3年 土木局京城出張所の所長に就任。 大正11年には大阪市水道部下水道課長となる。 遠山貞吉(明治12年3月 埼玉県比企郡伊草村(現.川島町伊草)に生まれる) 明治30年2月 埼玉県土木助手に採用され、見沼代用水普通水利組合委員や埼玉県土木技手を経て、 大正6年7月に滋賀県内務部土木課隧道工営所の初代主任となっている。 大正10年?に東京府内務部土木課板橋土木出張所の所長、 大正13年?には淀橋土木出張所の所長に就任している。 遠山は技術者としての教育は受けていない。高等小学校卒業後から明治30年に埼玉県の 土木助手に採用されまでの間は、地元の学者について漢籍を学んだのみである。 まさに現場叩き上げの土木技術者だ。 p.s.滋賀県では遠山の赴任後、煉瓦造りの随道(トンネル)が次々と建設された。 遠山の後を継いで隧道工営所の2代目主任に就いた村田鶴の設計によるという。 村田も埼玉県に関係があるそうである。これに関する素晴らしい研究が、 旧道倶樂部(http://nagajis.dyndns.org/KDC/)で公開されている。 参考文献: 島崎孝彦 土木人物事典、藤井肇男、アテネ書房、2004 遠山貞吉 埼玉県行政文書:明2445-228、北足立郡誌、名著出版、1972、p.182 |