荒川 - 関山川の合流から川の博物館まで [荒川のページ一覧]
撮影地:
埼玉県大里郡寄居町
(1)関山川の合流(右岸から) 寄居町鉢形 東武東上線の荒川橋梁から200m下流の地点。 関山川が右岸へ合流している。平成倶楽部(ゴルフ場)の 付近から流れ出す延長1.8Kmの渓流である。 写真の右端は合流地点に架かる水澄橋(すいちょう)。 荒川の岸辺には遊歩道が整備されているので、 このような橋が架かっている。対岸では天沼川が荒川へ 合流している。なお、この付近には樋の下の渡しと 呼ばれた渡船場があった(注1)。 |
(2)玉淀大橋の付近(上流から) 左岸:寄居町桜沢、右岸:寄居町鉢形 (1)から600m下流。玉淀大橋は国道254号線の道路橋、 昭和54年(1979)竣工。PC橋で形式はゲルバー桁のようである。 玉淀大橋の左岸橋詰には、昭和57年に設置された 河川改修基準点九(石造)がある。写真の左端に見えるのは 水天宮祭で使われる、提灯を付けた山車舟(だしふね)。 水天宮は正喜橋の下流左岸にあり、水天宮祭は正喜橋の 上流の玉淀河原で行なわれる。 |
(3)玉淀大橋から眺めた荒川(下流から) 右岸:寄居町鉢形、左岸:寄居町桜沢 玉淀大橋の上流に広がるのは立ケ瀬河原。製材所が あるのだろうか、隅には大量の木材が並べられている。 筏流しが盛んだった頃は、きっとこんな光景だったのだろう。 ほぼ北東へ向かって流れて来た荒川は、玉淀大橋の上流 400mで流路を急激に変え、直角に曲がり東へ向かって 流れ出す。水衝部(写真の左上)には断崖という自然の 強固な護岸が施されている。流れが弱くなる右岸側に 堆積作用で形成されたのが、立ケ瀬河原である。 なお、学術的には荒川の流域は寄居町小園から上流が 河岸段丘、下流が扇状地に区分されている。 |
(4)玉淀大橋から眺めた、かわせみ河原(上流から) 左岸:寄居町桜沢、右岸:寄居町保田原(ほだわら) この付近では川幅は広がり、約200mとなる。 玉淀大橋の下流に広がる河原は、かわせみ河原と呼ばれ、 水遊びやバーベキューを楽しむ人々で賑わっている。河原は 右岸側から広がっていて、川の博物館の西側に入口がある。 寄居町では河原の利用者から環境美化協力費として 車1台につき1日300円を徴収している。河原のごみ対策や 環境保全の資金としているそうだ。河原には所々に 泥岩の岩礁が露頭している(玉淀大橋の付近に顕著)。 おそらく、おう穴(ポットホール)が見られるだろう。 かわせみ河原も冬になると、白鳥が飛来するそうである。 |
(5)川の博物館と宮川(右岸から) 寄居町小園 平成9年(1997)に開館した埼玉県立の博物館。 野外展示などで、荒川右岸の河川敷を大々的に占有して いる。写真左に見えるのは、博物館のシンボルである 巨大水車。木製の水車としては日本一の規模(直径23m) だというが、人集めと話題作りのための飾りだ。園内には 実際に稼働していた水車(注2)が野外展示されている。 写真の中央から園内を流れて荒川に注ぐのが宮川 (土石流危険渓流)。木炭や小石を使った水質浄化施設が 設置されていると、案内板に誇らしげに記されている。 |
(6)荒川の河床(右岸から) 寄居町小園 (5)から200m下流。塩沢川が荒川へ合流した直後の様子。 塩沢川は比企郡小川町木呂子との境界付近、寄居町三ケ山から 流れて来る延長約3Kmの渓流。途中で国道254号線と 東武東上線を横断してくる。塩沢橋(国道254号線)は 昭和17年(1942)竣工の古い橋である。 荒川の河道には所々に大きな岩が露出している。 白波が立っているのは早瀬で、水深が浅いので流れが速く、 しかも付近に大岩などがあるので、流れが乱されて渦が生じている。 写真の奥の緑色の部分は対岸ではなく、河道に形成された中洲。 |
(注1)樋の下の渡しは、下(しも)の渡しや堰の下渡しなどと呼ばれていたようである。
武蔵国郡村誌の男衾郡鉢形村(9巻、p.126)には、堰の下渡しと記されている。
”寄居道に属す 村の北方 荒川の下流にあり 渡船二艘 私渡”
船二艘の内訳は人渡一艘、馬渡一艘である。
この頃の私渡とは、個人が所有するという意味は薄れ、民間(地元民)が
管理・運営する渡しのことを指す。県の管轄にある場合は官渡と呼ぶ。
私渡の起源は定かではないが文字通り、個人所有の渡しであり、賃取り(有料)だった。
しかし経営難を理由に、渡しの権利を村などに譲渡することも多かった。
明治中期頃には両岸の村が協力して、渡船を運営する形態(公共の渡し)に移行していった。
(注2)かつて荒川の上、中流域には、水車船(船水車、船車)という独特な
様式の水車が存在した。船の側面に水車を据え付け、船の上には石臼を
設けた移動可能な製粉施設(精米、粉引き)である。
通常、水車船は河床に固定されているが、荒川が増水した時には、
船を安全な場所へ移動あるいは陸に上げることで、流出・損壊を防ぐことができた。
江戸時代から始まったようだが、明治期にその数が増大し、設置数のピークは
明治末期頃だったという。しかし、電力を利用した製粉装置が登場してくると、
水車船は次第に影をひそめ、日本が戦争に突入する昭和10年代頃にその姿を消した。
水車船は個人所有の設備であり、利用者から製粉代を徴収していた。
荒川周辺の畑作地帯では製粉の需要は多く、水車船を所有し営業すれば、
多大な現金収入が得られたようである。明治期には河川に水車あるいは
水車船を設置して営業するには、まず県知事に申請して審査を受け、
最終的には内務大臣(現在の国土交通大臣に相当)の許可を得る必要があった。
つまり、免許制であり(有効期間は4年間)、河川を占有するので、水面使用料を
払わなければならなかった。ただし、水面使用料は年間20銭(明治25年)、64銭(明治35年)と
低額だった。ちなみに当時の物価は、たばこ(ゴールデンバット)1箱が4銭(明治39年)、
醤油一升が9銭(明治26年)、32銭(明治38年)だった。物価は、値段史年表、朝日新聞社による。
水面使用料とは別に営業税を納める必要があったが、その額は明治37年の時点で
水車船が1円60銭、一般の穀類製粉水車が2円だった(埼玉県議会史 第2巻、p.1167)。
なお、水車営業の免許制は、継続許可の申請や手続きが煩雑だとして、
明治35年(1902)には入間郡20数町村(入間川、高麗川沿線)の90数名の
水車営業者たちが、設置期限廃止の請願書を県に提出している(埼玉県史 資料編21、p.519)。
つまり、水車営業を既得権として承認して欲しいという内容である。
筆者が武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)を調べた限りでは、荒川には上流から順に
秩父郡寺尾村1艘、藤谷淵村1艘
男衾郡折原村3艘、榛沢郡寄居村2艘、桜沢村8艘、男衾郡小園村3艘、赤浜村2艘
榛沢郡荒川村1艘、永田村8艘
男衾郡畠山村5艘、榛沢郡田中村7艘、男衾郡本田村14艘と
実に55艘もの水車船の記述が確認できた。
ただし分布先は秩父郡と旧大里郡のみであり、足立郡には1艘も記述がない。
上記の分布を現在の市町村に直すと、秩父市に1艘、長瀞町に1艘、
寄居町に18艘、旧花園町に9艘、旧川本町に26艘である。
ただし、この数はあくまでも、水車船の設置ブーム以前の明治9年時点のものであること、
計上漏れが考えられること、この後さらに数が増えたことなどから、
最盛期には100艘近く存在したと推測される。
その根拠として、例えば川本町史、p.667によれば、明治33年時点での川本町の
町域での水車船設置許可者は40名である。つまり一人が一艘申請したとしても
最低でも40艘が存在したことになり、その数は明治9年時点の1.5倍以上に増大している。
郡村誌に記された水車船は、そのほとんどが大里郡(荒川の左岸が榛沢郡、右岸が男衾郡)であり、
秩父郡には水車船の記載はごく少ない。大里郡で興味深いのは、分布の特異性である。
ここでの大里郡とは明治29年以前の榛沢郡、男衾郡、旧大里郡、旛羅郡を指す。
(1)現在の寄居橋から押切橋までの約19Kmの区間に存在した
平均すると500mの区間に1.4艘だが、永田村は8艘、桜沢村は2.8艘、
本田村は2.4艘と設置密度が高い。なお、本田村は水車船が存在した最下流の村だが、
そこは地形的には、荒川新扇状地の扇央に相当する。
(2)大里郡の水車船は男衾郡と榛沢郡にしか存在しなかった
明治9年の時点で男衾郡では荒川に面した9村のうち5村に存在し、榛沢郡では
10村のうち5村に存在した。明治22年の町村合併によって、荒川に面した村は
男衾郡が折原村、鉢形村、男衾村、本畠村となり、
榛沢郡が寄居町、桜沢村、花園村、武川村となった。これらの村全てに水車船が存在した。
(3)大里郡に存在した水車の形式は全て水車船であり、固定式の水車は存在しなかった。
まとめると、大里郡では水車は特定の地域(男衾郡と榛沢郡)に集中して設置され、
しかもその形式は水車船という変わったものだった。
以下の表は、水車船が存在した各村の田畑の面積(明治9年時点)を集計したものだが、
荒川の下流に位置する大里郡(熊谷市、旧江南町、旧大里町)とは明らかに傾向が異なる。
小園村を除いて、男衾郡と榛沢郡では、田の面積は畑のそれを大きく下回っている。
それに対して、下流の大里郡では田が畑を大きく下回る村は少なく(久下村、新川村、手島村、
津田村の4村のみ)、ほとんどの村が田と畑の面積が同じか、田が畑を上回っている。
男衾郡と榛沢郡の村々に水田が少なかったのは、荒川の河岸段丘や扇状地の上に
村があるので、荒川に面していながら水源に恵まれなかったこと、六堰用水の元圦よりも
上流に位置していたことが挙げられる。事実、水車船が存在した村で、六堰用水の
水利組合に加入していた村はない。用水の水源はため池や湧水に依存していたので、
大規模な水田が拓けなかったのである。
また、武蔵国郡村誌の地味の項に”赤黒砂を交ゆ稲に適せず桑茶に応す”と記された村が多い。
水田がほとんどなかったため、主食は畑作物に頼ることが多く、明治初期の頃はこの地域では
麦飯(麦7、米3の割合)や麺類が主食だったと記録されている(→川本町史、p.1136)。
つまり、麦を石臼で挽き割る必要性(麦飯)や麦を小麦粉へと製粉する必要性(麺類)が
高かったのである。男衾郡と榛沢郡では、日常的に水車による製粉の需要が多かったのだ。
郡名 | 村名 | 水車船 | 田(ha) | 畑(ha) | 人口 |
田畑の面積は武蔵国郡村誌に税地として 計上されているもの。ただし、反以下は切り捨て。 本田村は他の村と比べると、 田の面積が群を抜いている。 本田村に水車船が多いのは 大地主が多く、水車船を所有するだけの 資本力が背景にあったということだろうか。 余談だが、田が1反(0.1ha)あると 大雑把な計算だが、成人2人の 1年間の米の消費量分を生産できた。 ただし、当時の米の反収を5俵とし、 成人の年間消費量を一石(2俵半)とした。 この表の田の面積は税地であり、 自家消費分は含まれていないと 思われるが、仮に計算してみると、 最も水田面積の多い本田村でさえ、 自村の消費分に相当する量は 生産できていないことがわかる。 小園村がぎりぎり、他の村は絶対的に不足である。 |
男衾郡 | 折原村 | 3 | 9.9 | 99.7 | 817 | |
小園村 | 3 | 10.5 | 12.4 | 244 | ||
赤浜村 | 2 | 10.8 | 112.4 | 655 | ||
畠山村 | 5 | 2.7 | 127.4 | 1122 | ||
本田村 | 14 | 82.7 | 205.2 | 1842 | ||
榛沢郡 | 寄居村 | 2 | 7.0 | 108.6 | 1152 | |
桜沢村 | 8 | 19.6 | 98.7 | 1437 | ||
荒川村 | 1 | 0.9 | 80.3 | 588 | ||
永田村 | 8 | 13.3 | 47.0 | 448 | ||
田中村 | 7 | 10.2 | 134.2 | 756 |
秩父郡では水車船のような半固定式の水車ではなく、固定式の水車となる。
荒川の上流部は川幅が狭くなり岩礁も多くなる。しかも両岸は急峻な断崖である。
水車を積んだ大型船では航行が困難となるだけでなく、川への船の搬入も難しかっただろう。
また、秩父郡には大里郡で見られるような広大な河原は存在しない。
そのため、秩父郡には水車船が普及しなかったのだと思われる。
水車船は荒川水系に特有というわけではなく、利根川水系でも存在が記録されている。
武蔵国郡村誌には榛沢郡高島村に3艘、中瀬村に2艘、旛羅郡石塚村に5艘と記されている。
これらの村も後に大里郡へ編入され、現在は深谷市に属している。
高島村と中瀬村は利根川に、石塚村は小山川と利根川の合流地点付近に
水車船が設けられていたと推測される。いずれの村も水運が盛んで河岸場があった。
上記と同じように表を作成すると以下のとうり。水田は皆無である。
郡名 | 村名 | 水車船 | 田(ha) | 畑(ha) | 人口 |
榛沢郡 | 高島村 | 3 | 0 | 72.3 | 668 |
中瀬村 | 2 | 0 | 97.8 | 1437 | |
旛羅郡 | 石塚村 | 5 | 0.4 | 46.7 | 396 |