荒川 - 折原橋から荒川橋梁(東上線)まで [荒川のページ一覧]
撮影地:
埼玉県大里郡寄居町
(1)折原橋から眺めた荒川(上流から) 左岸:寄居町末野、右岸:寄居町折原 玉淀ダムのすぐ下流なので荒川の水量は少ない。 折原橋は県道349号線の橋、平成13年(2001)竣工。 形式は上流の寄居橋と同じで、鋼製の下路アーチ (ニールセンロゼ?)。ここには最近まで、日山の渡しと 呼ばれる渡船場があり、末野の日山と折原の上郷を 船で結んでいた。→寄居町史 通史編、p.1344 また、筏流しが盛んだった頃にはドバ(筏の組み立て所)や 筏宿があったというが、その痕跡を辿るのは容易でない。 東へ向かって流れて来た荒川は、ここから800m下流の 藤田地区で南へと大きく流路を変える。その左岸の 断崖上に寄居公園がある。薄暗く殺伐とした公園である。 園内には嘉仁親王(大正天皇)の行啓記念碑がある。 |
(2)八高線 荒川橋梁の付近(上流左岸から) 右岸:寄居町折原、左岸:寄居町寄居 (1)から1.8Km下流。写真の奥がJR八高線の荒川橋梁。 形式は主径間が下路トラスで、側径間は上路プレートガーダーで ある。昭和9年(1934)の竣工だが、側径間には明治時代 初期に特有なポーナル型のプレートガーダーが使われている。 おそらく、これは他所から転用した桁であろう。 荒川橋梁の上流右岸には、坂東沢川(一級河川)が合流している。 付近には藤沢や境沢などの渓流も合流しているのだが、確認できない。 なお、荒川橋梁の左岸に鎮座する宗像神社は、大宝元年(701) 創建の古社である。荒川の氾濫を鎮めるために九州の宗像大社から 文霊し祀ったのだという。敷地内には弁財天社(現在は厳島神社)も 合祀されている。弁財天、厳島神社も水に関する神である。 宗像神社は右岸の白髭神社と対峙している。 この付近にも子持瀬(こもちぜ)の渡しという渡船場があった(注1)。 |
(3)正喜橋と玉淀河原(上流から) 左岸:寄居町寄居、右岸:寄居町鉢形 (2)から900m下流。正喜橋は県道30号飯能寄居線の橋で 寄居駅から南へ800mの地点に位置する。 大正9年(1920)に、民間有志によって架けられた旧橋は 長さ150mの吊り橋だった。→寄居町史 通史編、p.977 正喜橋の周辺は玉淀と呼ばれ、奇岩の路頭と絶景を誇り、 埼玉県指定名勝地となっている。岸壁を構成するのは 凝灰岩だと思われる。玉淀は古くからの景勝地というわけ ではなく、昭和初期に観光事業として開発されたものだ。 その発端は大正二年に青年会が荒川に沿って 植樹した桜並木だそうだ。→前掲書、p.1225 それまでは正喜橋の付近は城下河原と呼ばれ、 雑木が両岸を覆い尽くし、人も寄り付かない辺鄙な 所だったという。玉(宝石のように美しい)淀(水の淀み、 深淵)から玉淀と命名された。玉淀河原では水天宮祭が 催される。水天宮とは水神のことで、漁師や筏師が 水難除けに祀っていた。 |
(4)鉢形城跡から眺めた荒川と寄居町(右岸から) 寄居町鉢形 (3)の右岸側、鉢形城跡(国指定史跡)から撮影。 寄居町は荒川左岸の河岸段丘(寄居面と呼ばれる沖積台地)に 展開している。河岸段丘は荒川の左岸側に広く分布している。 写真の奥に見えるのは上武山地(最高峰は鐘撞堂山で330m)。 現在、正喜橋の右岸上流一帯の24haは、鉢形城公園として 整備されている。園内には鉢形城歴史館があり、遊歩道や 案内標識、説明板が充実している。鉢形城とは戦国時代まで この地にあった北条氏の平山城だが、天正18年(1590)に 小豊臣秀吉の田原征伐によって落城し、後に取り壊された。 →鉢形城の説明板 新編武蔵風土記稿によれば、寄居という 地名は鉢形城の落城のさいに、各地から落人が寄り集まって 居住したことに由来するのだという。熊谷市の旧熊谷堤は 天正2年に鉢形城主 北条氏邦によって築かれた。 なお、正喜橋の上流には、写真左隅のような練石積みの水制工が 両岸に数基設置されている。あちこちに囮(おとり)アユの看板が あるので、それと関係があるのだろうか。荒川を見下ろす左岸の 崖上には、玉淀碑(昭和8年建立の歌碑)が建っている。 |
(5)深沢川の合流(左岸下流から) 寄居町鉢形 (4)から300m下流。正喜橋から下流へ100mの地点では 右岸へ深沢川が合流する。川幅の小さな沢だが渓谷美が 素晴らしい。西ノ入地区から流れ出し、延長は4Km近く あり意外に長い。浸食作用で河床に形成された深淵は 四十八釜と呼ばれ、寄居町指定名勝となっている。 深沢川の支川には三品川などがある。 深沢川のすぐ下流では長久院川(準用河川)も荒川に 合流している。合流付近には江戸時代に建てられた 橋供養塔がある。なお、この付近の左岸崖上には、 水天宮と宮沢賢治の歌碑がある(注2)。 |
(6)東武東上線 荒川橋梁の付近(上流から) 左岸:寄居町寄居、右岸:寄居町鉢形 (5)から400m下流、この付近までが玉淀だ。荒川の河床には 巨大な角ばった岩が多くなる。河原の周縁部には礫と砂が 分布している。荒川には意外な所に瀬と渕が分布しているそうだ。 地元の人は淵の存在と危険性を熟知しているので、 そんな所には決して近づかないが、その存在すら知らない、 観光客などが、水の事故に巻き込まれる例が多いそうである。 写真の奥に見えるのは東武東上線の荒川橋梁。 大正14年(1925)竣工だが、鉄道の上路トラス橋としては 転用桁を除き、埼玉県で最も古い(筆者の知る限り)。 |
(注1)子持瀬の渡しは、武蔵国郡村誌の男衾郡折原村(9巻、p.133)に以下のように記されている。
”渡:秩父道に属す 村の東方 荒川の下流にあり 渡船二艘 私渡”
秩父道とは折原村から秋山村、風布村を抜け、釜伏峠を越えて秩父へ
至る裏道だったようだ。子持瀬の渡しは寄居町と折原村を結ぶ渡しで、
船二艘の内訳は人渡が二艘である。なお、この頃の私渡とは
個人が所有するという意味は薄れてきて、民間(地元民)が
管理・運営する渡しのことを指す。県の管轄にある場合は官渡と呼ぶ。
渡しがあった付近には、折原村青年団が昭和6年に建立した道標が
残っていて、それにも子持瀬の渡場への道案内が記されている。
道標の近くには大正末期に設置された、折原村の道路元標が今も保存されている。
ちなみに、埼玉県における道路元標の現存率は約40%だが(筆者の調査による)、
郡別に見ると最も現存率が高いのが大里郡である。→埼玉県の道路元標
実に80%(設置された40基のうち32基)が現存している。
寄居町も現存率が高く、旧1町5村のうち、所在が不明なのは
鉢形村のみであり、計5基の存在が確認されている。
(注2)歌碑は保健所寄居支所前にある。平成5年(1993)に寄居町の有志に
よって建立され、宮沢賢治がこの地で詠んだ、以下の2首が刻まれている。
毛虫焼く まひるの火たつ これやこの 秩父寄居の ましろきそらに
つくづくと 粋なもやうの 博多帯 荒川ぎしの 片岩のいろ
2首目に詠まれた片岩とは結晶片岩(変成岩の一種)のこと。地殻変動によって
地下深く追いやられた岩石が、高温や高圧力により組成変化したもので、
結晶片岩は片理(うすく剥がれる性質)と節理(割れやすい性質)が特徴である。
この付近の荒川では、あちこちで見られる。例えば写真(3)の右上隅に見えるような
露出した岩肌がそれであり、風化浸食作用により断崖を呈している。
なぜ、寄居町に宮沢賢治なのか、実は賢治はこの地に足跡を残していた。
盛岡高等農林学校(日本で最初の高等農林学校、現在の岩手大学農学部)の
学生(農芸科第二部、後の農芸化学科、今は応用生物化学課程)だった20歳の
宮沢賢治は、関豊太郎教授引率の下、大正5年(1916)の9月に秩父地方へ
地質・土壌調査に訪れた。そのさいに寄居に立ち寄り、水天宮の付近から
波久礼駅の付近まで荒川周辺の地質調査を行なっている。
当時、東武東上線と八高線はまだ開通していないので、官鉄(今のJR)の
熊谷駅から上武鉄道(現在の秩父鉄道)に乗り換えて、寄居町に降り立ったと
思われる。調査の合間に賢治は18首の短歌を詠んでいる。
なお、賢治の歌碑は秩父鉄道の野上駅(長瀞町本野上)、小鹿野町役場バス停前、
熊谷市の八木橋デパートの脇にもあるそうだ。