荒川 - 花園橋から荒川橋まで [荒川のページ一覧]
撮影地:
埼玉県深谷市、大里郡寄居町
荒川はこの付近から扇状地河川の特徴が顕著となる。
(1)お茶々が井戸 深谷市小前田 道の駅はなぞの(国道140号線)から南へ200mの地点、 荒川の河川敷へと続く小道の脇にある。 花園町(現在は深谷市)指定文化財。 外見はごく普通のコンクリート製の井戸で、オーラは まったく無いが、この付近は鎌倉街道上道(かみつみち)の 街道筋に比定されていて、ここにはかつて街道の茶屋が あったと伝えられている。鎌倉街道は荒川左岸の崖上に 沿って下流へ向かい、写真(5)の地点で荒川を渡っていた ようである。お茶々が井戸は浅井戸だが、水が枯渇した ことはなかったそうなので、荒川扇状地の伏流水や 湧水が豊富だったのだろう。→現地の説明板 同様に、永田地区の柳出井池も湧水だった。 |
(2)花園水辺公園の付近(下流右岸から) 左岸:寄居町小園、右岸:深谷市小前田 (1)から200m下流。川幅はさらに広がり、300m近くになる。 河床勾配が緩くなり流速が低減するからだろう、河道には 大きな洲(というより島)が形成されている。荒川は幾筋かに 別れて網状に流れている。上流までは両岸に河岸段丘が 顕著だったが、この付近からは扇状地河川の特徴が現れ始める。 荒川の左岸の河川敷には花園水辺公園と正智深谷高校の グランドが設けられている。花園水辺公園は河川敷を均して、 数箇所に築山を設けただけの簡素な施設。園内を横断する、 排水路(都市下水と雨水?)があり、荒川へ放流されているの だが、その入口(崖下から河川敷へ)は落差が大きいので、 滝のような流れになっている。 |
(3)花園橋の付近(上流左岸から) 左岸:深谷市荒川、右岸:寄居町赤浜 (2)から1.5Km下流。花園橋は昭和62年(1987)竣工。 それまでの橋は冠水橋(潜水橋、増水時には通行止と なる)だった。花園橋は河道を跨ぐ部分(PC橋)は300m 程度だが、右岸側には河道からかなり離れて段丘崖が 存在するので、そこまで繋がないと、橋として機能しない。 そのため、PC橋に連続して曲線橋(鋼桁製)が設けられ 花園橋の全長は900m近い。曲線橋上には交差点がある。 花園橋の左岸橋詰には、新馬坂開鑿之碑が建つ。 農村漁村匡救土木事業(失業対策)として新道の開削が 実施され、昭和10年に工事が竣工したと記されている。 |
(4)花園橋と荒川橋の間に広がる低地(右岸から) 寄居町赤浜 右岸の段丘上から撮影。この付近の荒川の両岸は地形的に 対照的である。左岸は櫛引台地が荒川の際まで接近していて、 その上を国道140号線が荒川に沿って通っている。 右岸は荒川の周辺に、赤浜下耕地と呼ばれる低平地が 広がっている。荒川の河床との比高は数mしかない。 沖積土が分布しているようだが、水利の便が悪いのだろう、 ほとんどが畑地となっている。この低地は南側へ約500mに 渡って延びていて、その奥が寄居面と呼ばれる沖積台地である。 表面に関東ロームが堆積していない低位の段丘である。 段丘の上を県道81号熊谷寄居線が通っている(県道と国道を 結ぶ橋が花園橋である)。さらに奥が江南台地(洪積台地)となる。 |
(5)獅子岩(右岸から) 寄居町赤浜 (4)から300m下流。ここは鎌倉街道上道の荒川渡河地点 だったとされる場所。右岸側の河川敷と河床には、 このような大きな岩があり、獅子岩や川越岩と呼ばれて いる。現在はこの付近の荒川は浅瀬だが、当時も 同様だったのだろうか。だとすると、船による渡しではなく、 岩づたいに徒歩で荒川を渡っていたことになる(徒渡り)。 後年、この付近には赤浜の渡し(注)が設けられ、 赤浜村と対岸の荒川村川端が船で結ばれた。両村の 境界が荒川河床中の獅子岩だったが、江戸時代には 村境と渡船の利権を巡って紛争も起きている。 →花園村史、p.341-372。 なお、荒川村は明治22年に 小前田村、黒田村、永田村などと合併して榛沢郡花園村と なった。大正末期に設置された花園村の道路元標が 今も残っている。 |
(6)荒川橋(関越自動車道)の付近(上流右岸から) 左岸:深谷市黒田、右岸:深谷市畠山 (5)から600m下流。荒川橋から上流へ300mの右岸には 新吉野川(一級河川)が合流している。寄居町冨田地区 付近から始まる延長約3Kmの小河川で、荒川の蛇行部に 自然合流している。新吉野川の水源地は市野川(一級河川)の それに近い。新吉野川は名称に[新]が付くように、現在は 吉野川の捷水路(放水路)的な位置付けである。 深谷市畠山と寄居町赤浜との境界付近では、段丘崖が荒川の 右岸へ近づいてくる。段丘崖には雑木林の中に切り通しの 細い道があり、荒川へと降りる付近(アイリスオーヤマのビルの 北側)には[鎌倉古街道 山王の渡]と記された案内標識(川本町 教育委員会)が建てられている。山王とは畠山地区の小字なので、 荒川橋の下流には、赤浜の渡しとは別の渡しがあったのだろう。 写真奥の急崖付近は水深が深く、山王淵と呼ばれている。 |
(注)赤浜の渡しは、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
男衾郡赤浜村(9巻、p.156)に以下のように記録されている。
”渡:川越道に属す 村の北方 荒川の上流にあり渡船二艘 私渡”
川越道とは児玉往還のことである。前掲書の荒川村(赤浜村の対岸)では
渡しの名前は、荒川渡となっている。赤浜村には”荒川の上流にあり”、
荒川村には”荒川の下流にあり”と記されているので、
渡しの設置場所は現在の花園大橋の付近だったと思われる。
なお、この頃の私渡とは個人が所有するという意味ではなく、民間(地元民)が
管理・運営する渡しのことを指す。県の管轄にある場合は官渡と呼ぶ。
男衾郡赤浜村は明治22年に富田村、牟礼村、今市村などと合併して、
男衾郡男衾村となった。男衾郡は明治29年に大里郡へ編入された。
大正末期に設置された男衾村の道路元標が今も残っている。
なお、男衾郡は中世には男衾三郎に代表される武蔵武士の拠点であった。
教科書でおなじみの[男衾三郎絵詞]は男衾三郎と吉見二郎の兄弟にまつわる、
地方武士の生活を描いた絵巻物(国の重要文化財)。
赤浜地区にはわずか200mの距離に、男衾郡の延喜式内社が2社、存在している。
出雲乃伊波比神社(郷社)と小被神社(おぶすま、村社)である。
延喜式内社とは、延喜式神明帳に記載された古社のことなので、
両社の創建は延喜年間(西暦900年頃)以前である。
ちなみに男衾郡の延喜式内社は3社で、残る1社は寄居町鉢形の稲乃比売神社。
赤浜地区の2社は、天正年間(1573-1591)の荒川の洪水が原因で
当初あった場所から移転したために、現在のように隣接した形に
なったのだという。延喜式内社の集中分布と赤浜下耕地(氾濫原の跡)の
存在は、荒川と密接に関係している。
なお、出雲乃伊波比神社は、武蔵国造 物部氏(古代出雲族の末裔とされる)が
祀った事例が多いという。近隣には大里郡江南町板井(和田川の右岸)、
比企郡吉見町黒岩(横見川の右岸)にも存在する。
赤浜地区の南東部、牟礼と今市地区に接する付近の小字は塚田である。
この地は室町から戦国時代にかけて、武州塚田の鋳物師の里として
名を馳せた。その当時、埼玉県の県域には大小の鋳物師集団が
各地に存在した。例えば、金屋鋳物師(児玉町金屋、小山川沿線)、
渋江鋳物師(岩槻市村国、元荒川沿線)、柏原鋳物師(狭山市柏原、
入間川沿線)などが著名である。
塚田は室町時代には、塚田千軒と呼ばれるほどの大きな宿場町を
形成していたが、それを支えたのが塚田鋳物師の存在だという。
宿場はおそらく鎌倉街道沿いに形成されたのだろう。
なお、赤浜の出雲乃伊波比神社には、妙見社(北辰神社)が合祀されていて、
境内社が残っている。妙見(北辰)は船乗りや鍛冶屋(金属精錬業)の
信仰が厚かったという。赤浜の渡しに携わった舟運関係者と
塚田の鋳物師の存在がクローズアップされる。
ちなみに秩父地方の総鎮守である延喜式内社の秩父神社は
江戸時代には、秩父妙見宮と呼ばれていた。北辰一刀流の祖、
千葉周作も熱烈な妙見信者であった。
なお、寄居町史 通史編、p.308-309によれば、塚田の三嶋神社には
塚田鋳物師が応永二年(1395)に奉納した鰐口(吊り鐘の一種、
形はドラに似ている)が現存するそうだ。残念ながら、直接見ることはできない。
赤浜の塚田地区から鎌倉街道に沿って600m南下すると、市野川の左岸に
達する。そこは寄居町牟礼と今市の境界だが、その付近でも金属の精錬が
行われていた形跡がある。金山、金塚などの小字名が分布し、
なおかつ金山社が祀られていたとの記録もある。
金山社の祭神は金山彦命であり、この神は金属精錬業者の
信仰を集めたようである。今市で金属精錬が行われていた時代は
不明だが、個人的には、今市の方が塚田よりも古いと想像している。