江川 (えがわ) (その2) (その1)
撮影地:埼玉県上尾市
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(2)協和橋の付近(右岸下流から) 上尾市領家 写真(1)から200m下流。江川に架かる最下流の橋が 協和橋(昭和37年竣工)。長さ6.4m、幅員2.0mの歩行者専用橋。 橋面には[三級基準点 江川No.8]の標識が設けられている。 右岸は雑木林と湿地帯で、雑木林の奥には荒沢沼がある。 この付近にはサクラソウなどの絶滅危惧種の植物群が 棲息するそうだ。豊かな自然と対照的に、左岸にはなんと 領家工業団地が立地している。 |
(3)水辺の風景 (上流右岸から) 上尾市領家 写真(2)から300m下流。川幅は約7m。この付近は現況保全 協定区であり、江川流域の遊水機能を保持するために、 土地所有者との間には盛土に関する自粛協定が、 締結されているそうだ。左岸には雑木林が広がる。 右岸の桶川市川田谷は台地であり、上尾市領家に比べ 江川との標高差が大きい。樋詰地区には熊野神社古墳 (埼玉県指定史跡)がある。これは5世紀初頭に築かれた 円墳(直径30m)で、埼玉県でも最古の部類だそうだ。 |
(4)河畔林 (上流から) 上尾市領家 写真(3)から500m下流。江川は適度に蛇行し、水際には 河畔林が形成されている。江川の原風景ともいえる。 ここから南(写真奥)には侘しい風情の椿堂があり、敷地内には 芭蕉の句碑(天保5年建立)と共に水難死者供養塔(大正6年建立)が 祀られている(注1)。また北西へ600mの桶川市川田谷の氷川神社と 雙龍堂には江戸時代に建立された石橋供養塔が残っている。 氷川神社脇の街道は中山道の裏道として重要だったようで、 氷川神社の鳥居付近には、道しるべ(1771年建立)も残っている。 |
(5)宮下堤と宮下樋管(下流から) 上尾市領家 写真(4)から200m下流。突如として現れるのが宮下堤。 桶川市から上尾市にかけて荒川の左岸には連続堤防は なく、水防重要箇所にのみ堤防が築かれている(注2)。 そのため、宮下堤の延長は500m位しかない。宮下堤に 伏せ込まれているのが宮下樋管(ゲート幅2.4m)。 この樋管を通して、江川は荒川の河川敷へ導かれる。 |
(6)江川の終点 (荒川の下流から) 上尾市領家 写真(5)から200m下流。宮下樋管の吐口から荒川の 河道までは延長約200mの堤外水路が荒川の河川敷に 設けられている。堤外水路はコンクリート護岸が施され、 合流口には護床のためのコンクリートブロックが大量に 設置されている。荒川には江川の合流地点から500m上流に、 樋詰橋(冠水橋)が架けられている。 |
(注1)水難死者供養塔には、慶應2年から大正4年までの地元(畔吉、
藤波、領家など)の死者33名が記され供養されている。
芭蕉の句碑には椿堂の名にちなみ、[うぐひすの 笠落したる 椿かな]が刻まれている。
句碑は畔吉村出身の無礙庵(むさあん)という俳人の米寿(88歳)を祝して、
友人達が建立したものだ。埼玉県には荒川の沿線だけでなく、
利根川の沿線にも芭蕉の句碑が多く分布している。→利根川沿線の芭蕉句碑
(注2)宮下堤という名前は、川田谷村宮前から領家村堤下を結ぶ堤防に由来する。
武蔵国郡村誌の足立郡領家村(3巻、p.112)に、以下のように記されている。
宮下堤:”荒川水除堤なり 村の西より起り川田谷村界に至る 長九十九間 馬踏九尺
堤敷十三間乃至十九間 修繕費用は官に属す 水門一箇所 長一間幅二間”
当時(郡村誌の編纂は明治9年)の宮下堤の規模は長さ178m、堤防天端幅2.7m、
堤防敷23.4m〜34.2mである。長さこそ短いが堤防の断面はかなり大きい。
重要度が高かったためだろうか、宮下堤の修繕は民費ではなく官費である。
なお、記述にある[水門]は宮下樋管の前身だと思われるが、この水門は
堤防の断面寸法に対して樋管長が短かすぎる。長さ一間(1.8m)が誤りでないなら、
宮下堤は水門の付近のみ、堤防の敷幅が狭くなっていたことになる。