十王排水路 (その2) (その1)
撮影地:埼玉県北埼玉郡大利根町、北葛飾郡栗橋町
(1)十王橋の付近(下流から) 右岸:大利根町間口、左岸:栗橋町佐間〜高柳 県道316号阿佐間幸手線が十王排水路を横断する地点に 架かるのが十王橋。この付近は浅間川の旧流路を 堤防を築いて締切った場所である(注1)。ここから下流の 十王排水路の流路は、浅間川の旧流路とほぼ一致する。 なお、間口地区の県道316号線(約1.5Km)は、 浅間川の右岸堤防跡を改修したもの。 |
(2)高柳分水の余水吐(左岸から) 栗橋町高柳 (1)から300m下流。右岸側には工業団地が進出している。 ここでは島中領用水路の高柳分水が、十王排水路を 伏越で横断する。高柳分水の伏越には余水吐が 併設されていて、送水しきれない水や不要な水は、 十王排水路へ放流される。高柳分水はここから下流で 2派に別れ、東へ向かう水路は、さらに下流で 稲荷木落排水路とJR東北本線を横断している。 |
(3)十王排水路(上流から) 左岸:栗橋町高柳、右岸:大利根町豊野台二丁目 周高柳分水の付近の様子。囲は旧河川敷(氾濫原)を 連想させる地形である。十王排水路は基本的に 素掘りのままの水路であり、コンクリート護岸は 施されていない。所々に木杭による木製の護岸跡 (堤防の根固めだろう)が残っている。 また、十王排水路は掘り込み河道であり、 両岸には、はっきりとした高さの築堤は見られない。 |
(4)旧堤防(下流から) 栗橋町高柳 (3)から400m下流。溜井橋の上流左岸から東へ向かって、 約500mに渡り、このような蛇行した古い堤防が残っている。 自然堤防ではなく明らかに築堤であり、天端幅は2.5m、 比高は1.6m。十王排水路の右岸側にある道路もこれと 同等の高さである。これは島中溜井(注2)の堤塘跡だろうか。 それとも古川(旧渡良瀬川)に対する島中領の囲堤だろうか(注3)。 周辺は畑地であり、土壌は砂質土が多く分布している。 写真の奥には微高地が広範に分布するが、砂丘のような印象だ。 |
(5)溜井橋の付近(下流から) 栗橋町高柳 (4)から200m下流。溜井橋の下流には旧溜井堰の跡が 残っている。現在はコンクリート製の堰柱が3基残るが、 当初は4基あったと思われる。この付近は昭和初期まで 島中溜井と呼ばれる農業用水のため池だった。これは その取水堰の跡だろう。現在は溜井橋の上流右岸に 豊静揚水機場が設けられ、ポンプによる取水である。 |
(6)十王排水路の終点(下流から) 右岸:大利根町北大桑、左岸:栗橋町高柳 (5)から350m下流。十王排水路は古門樋橋(国道125号線)の 上流で中川の右岸へ合流する。手前が中川、奥が十王排水路。 合流地点から100m上流には、昭和33年竣工の新しい溜井堰が 設けられている。十王排水路の水位調節(取水のための)と 中川からの逆流防止が目的だろう。 |
(注1)新編 武蔵風土記稿の葛飾郡之一(1巻、p.381)の古利根川の項に
よれば、間口と高柳の間に堤防を築いて、浅間川の水が古利根川に
流れ込まないようにしたのは、万治三年(1660)である。
これは葛西用水の建設工事の一貫として実施されたようである。
なお、浅間川の締切堤防には後に十王圦と呼ばれる樋管が設けられた。
十王圦は羽生領の悪水を浅間川の流路を経由して、島川(現在の中川)へ
排水すると共に、島川からの逆流防止樋門の役目も果たしていた。
また、十王圦は下流に設けられた島中溜井への圦樋でもあった。
十王圦は中川の改修によって不要となり、昭和初期に撤去された。
(注2)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
埼玉郡間口村(12巻、p.436)に記された、十王沼が島中溜井のことである。
”東西三百八十間 南北四十間 周囲十六町十四間 村の東南隅にあり”
周囲長が約1770mの巨大な溜井である。島中川辺領13ヶ村に用水を供していた。
(注3)この旧堤防は武蔵国郡村誌の葛飾郡高柳村(14巻、p.451)に
記された古堤の可能性が高い。
”古堤:村の東方 佐間村界より西方 字溜井にて止む
長四百七十四間 馬踏二間 堤敷十二間 修繕費用は民に属す”
延長850m、天端幅3.6m、敷幅21.6mとなっているが、
敷幅(堤敷)の記述は大きすぎるので、誤りかもしれない。