中川 - 手子堀川から十王排水路の合流まで [中川のページ一覧]
撮影地:埼玉県加須市、北埼玉郡大利根町
![]() (1)手子堀川の合流(下流から) 上流:大利根町松永新田、下流:加須市北篠崎 新・槐堀川の合流地点から600m下流では手子堀川が、 右岸へ合流する。奥に見えるのは鹿沼橋。鹿沼橋の 右岸から加須市の中へ向かって細長く延びているのが、 松永新田。慶長年間(1596-1615)に杓子木村の民に よって開発されたのだという。この地点から100m下流に 架かる道橋(どうはし)の左岸には文化ニ年(1805)建立の 石橋供養塔、右岸には準用河川 島川起点の石碑が 残っている。この付近の中川は近代改修前は島川だった。 中川の左岸から600m東には、旧浅間川の堤防跡が 延々と残っている。生出(おいで)地区には、水防祈願の 九頭龍大権現が2体祀られている。 |
![]() (2)午の堀川の合流(上流から) 大利根町北大桑 手子堀川の合流からわずか500m下流で、今度は 午の堀川が中川の右岸へ合流する。午の堀川も 手子堀川と同じく一級河川だが、実質的には農業排水路。 羽生領用水(利根川から取水)の用悪水路である。 午の堀川の合流から、さらに300m下流では右岸に 松原落が合流している。なお、午の堀川の合流付近に 架かる八ッ島橋は昭和初期に建設された鋼桁橋。 古いがなかなか趣のある橋だ。八ッ島橋から 700m下流に架かるのが、水門橋(生出~阿佐間)。 水門橋という名称は、かつてその地にあった生出水門に 由来するのだろう。生出水門からは島中川辺領の用水が 取水されていた。 |
![]() (3)豊野台テクノタウンの付近(下流から) 大利根町間口 (2)から1.5Km下流。左岸側には延々と工業団地、 豊野台テクノタウンが続く。この付近の川幅は約50m。 まだ両岸には本格的な堤防は築かれていない。 中川は田園風景の中をゆったり流れる。たぶん上流部の 流域の半分以上は水田であろう。大利根町では利根川の 周辺(浅間川も含む)に鷲神社が多いのに対し、中川の 流域には、八幡神社が多く分布している。阿佐間の 八幡神社は金毘羅社、白山社、熊野社などを合祀。 北大桑には香取神社が鎮座し、境内社は琴平神社だ。 |
![]() (4)新井大橋の付近(下流から) 大利根町新井新田 (3)から700m下流。新井新田とは下新井村(現在の北下新井)の 新田村だったのだろうか。しかし新井新田は羽生領だったが、 下新井村は向川辺領に属していた。新井大橋と上流の豊野橋は メロディー橋である。渡る時にボタンを押すと、童謡(たなばたさま、 野菊)が流れる。作曲者の下總皖一(しもうさ かんいち:1898-1962)は 大利根町の出身。[童謡のふる里おおとね]の所以である。 琴寄地区の稲荷木落には、野菊の小径という遊歩道も 整備されている。 |
![]() (5)十王排水路の合流(下流から) 右岸:大利根町北大桑、左岸:北葛飾郡栗橋町高柳 新井大橋から200m下流では、十王排水路(写真の 右端)が中川の左岸へ合流する。合流地点の下流には 古門樋橋(国道125号線)が架かっている。古門樋とは 権現堂川(かつては利根川の幹線)から島川へ洪水流が 逆流してくるのを防ぐための水門だった。写真奥の 白い建物は下水処理場。十王排水路の流域には 古川(渡良瀬川の派川)や浅間川(利根川の旧流路)の 旧堤防、氾濫跡の湖沼群が数多く残っている。 北西に位置する大利根町阿佐間は浅間川の名残だ。 なお、かつてこの付近には島中溜井(島中領の農業 用水の溜池)が設けられていた。十王排水路には、 現在も溜井堰という名の堰がある。また、古門樋橋の 前身は溜井の渡しと呼ばれた渡船だった。 |
![]() (6)中川放流工の付近(上流から) 左岸:北葛飾郡栗橋町高柳、右岸:加須市川口 写真(5)から500m下流。中川は南へ東へと大きく蛇行して 流れている。この付近は大利根町、加須市、栗橋町、 鷲宮町の行政区界であり、中川が北埼玉郡と北葛飾郡の 境界となっている。中世までこの付近では、2つの利根川: 南利根(会の川)と東利根(浅間川)が合流し、さらに下流では 古利根川(会の川の下流部)から権現堂川(のちの島川)が 分岐していた(注1)。加須市川口は、まさに河口だったのだ(注2)。 中川の右岸側には葛西用水路(古利根川の旧流路を 改修した農業用水路)が、中川にかなり接近して流れている。 葛西用水の与八圦(羽生領の悪水を葛西用水路へ 加用水として放流)が設けられていたのは、この付近である。 現在の中川放流工は羽生領用水の余水を 中川に放流する施設だと思われる。 |
(注1)新編武蔵風土記稿の葛飾郡之一(1巻、p.382)の島川の項に
”此川元古利根川の枝流にて当郡島川村より分れし川なりしに、
万治三年水上高柳村と埼玉郡川口村との間に堤を築て水流を止め、
下流八甫村以下を用水堀とせしゆへ、自づから一流の川となりしかど、
当時は水流も増減ありて今の如くにはあらざりしに、其後隣郡
埼玉郡羽生領諸村の悪水を此川より利根川に落せしかば、
川幅も漸くひろこりけれど利根川満水の時は逆流して羽生領の
村々動もすれば水溢の患ありしゆへ~以下略”とある。
文中では万治三年(1660)に締め切りの堤防が築かれたとなっているが、
これは葛西用水(当時は幸手領用水)に関する一連の工事であり、
葛西用水はこの年に開削されている。
また、羽生領諸村の悪水を利根川に落としたとあるが、
これは現在の権現堂川のこと。
(注2)加須市川口には葛西用水路の右岸に沿って、古利根川の
旧堤防である川口堤の跡が残っている。昭和年22年のカスリーン台風では、
中川の堤防が6箇所も破堤した。洪水の濁流は葛西用水路を乗り越えて、
川口堤にまで押し寄せ、川口堤は数箇所で決壊している。
加須市南大桑、川口、南篠崎地区には、それぞれ災害復旧記念碑が
建てられていて、当時の被害状況を現在に伝えている。
なお、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、南大桑村と北大桑村では
周辺の村々に比べて、水害予備船の保有率が非常に高くなっている。
南大桑村(12巻、p.420)は村の戸数179戸に対して水害予備船が20艘、
北大桑村(12巻、p.424)は村の戸数113戸に対して水害予備耕作船が45艘である。
特に北大桑村は村内に葛西用水と島川が流れ、さらに島川へ
合流する午の堀、松原堀(現在の松原落)、太郎四郎堀(現存せず)と
いった悪水堀も存在するので、水害に直面する頻度が高かったようである。
そのため、民家はいざという時のために船を常備していたのである。
船は水害予備船だけでなく、耕作船も多い。
水はけが悪い沼地に作られた田んぼでは、農作業をしようとしても腰まで
水に浸かってしまう。そのような田んぼでは、耕作船を使っての農作業が行なわれていた。
一方の水害予備船とは文字通り、水害に備えて各戸が所有する船のことである。
普段は船を家屋の軒先などに吊るして保管しておくが(揚舟)、
水害時には、この船を軒から降ろして使った。