小山川 (源流から昭和橋まで) [小山川のページ一覧]
撮影地:埼玉県秩父郡皆野町
小山川は延長36Km、流域面積204Km2の利根川水系の一級河川。
秩父郡皆野町金沢(かねざわ)を起点とし(注1)、最上流の約2.5Kmの区間は東へ向かって流れるが、
児玉郡児玉町からは向きを北へ変え、美里町、本庄市、大里郡岡部町と北東へ流れる。
一の橋(国道17号線、本庄市〜岡部町)の付近からは流れを東へ変え、
深谷市を経て、最後は大里郡妻沼町で利根川の右岸に合流する。
主な支川は上流から順に、平沢川、稲聚川、間瀬川、小平川、秋山川、男堀川、志戸川、
女堀川、元小山川、備前渠川、清水川、唐沢川である。平沢川を除き、全てが一級河川だが、
農業用水との関係が深く、例えば間瀬川は児玉用水、男堀川と女堀川は九郷用水(神流川から取水)、
備前渠川(烏川〜利根川から取水)は備前渠用水、それぞれの用排水路としての役割がある。
小山川自体も備前渠用水の送水路として使われている。
小山川の現在の形態は昭和初期に確定した。元来は身馴川(みなれ)と元小山川の
合流地点(本庄市牧西(もくさい)〜岡部町西田)から下流が、小山川と呼ばれていた。
大正末期から昭和初期にかけて実施された、埼玉県営の河川改修事業に伴い、
小山川の河川区域は、かつての身馴川の流域にまで拡張された。
例えば明治9年の調査を基に編纂された、武蔵国郡村誌の榛沢郡牧西村(10巻、p.47)には、
”身馴川:深処五六尺浅処二三尺 幅十二三間より十四五間に至る 舟筏通せず
南方児玉郡鵜森村より来り 東流する事僅に一町十間にして南方本郷西田村に注ぎ
復本村の境に至り 元小山川に会し小山川となる”とある。
この記述からも明らかだが、当時の身馴川は元小山川との合流付近では、
奔放に蛇行を繰り返して流れていた。身馴川の蛇行の痕跡は本庄市と岡部町の間の
複雑な市町村界に現れている。なお、身馴川の流路はおおむね郡界を流れていた。
左岸が児玉郡、右岸が那珂郡(明治29年に児玉郡へ編入)と榛沢郡(同年に大半が大里郡へ編入)である。
興味深いことに、前掲書では児玉郡の町村(例えば児玉町、沼上村、北十条村、南十条村、
栗崎村など)で身馴川は”平常流水なし”と記述されている(注2)。
児玉町、沼上村、北十条村、南十条村には”大雨のとき暴張す”とも併記されているので、
頻繁に水害が発生していたのだろう。児玉郡および榛沢郡では”堤防なし”と記された村が多く、
”堤防あり”は沼上村、北十条村、西五十子村、東五十子村、鵜森村のみである。
一方、小山川では堤防の有無が明記されていない村が多いが、はっきりと”堤防なし”と
記述があるのは上敷免村のみで、”堤防あり”は上流から順に東五十子村、滝瀬村、岡村、町田村、
矢島村、起会村、成塚村、新戒村、沼尻村、高島村(新戒村の記述より)である。
(1)源流部の様子(上流から) 皆野町金沢(かねざわ) 金沢の浦山地区。右岸には女岳と男岳の2つの山が並ぶ。 小山川の源流は女岳(女嶽)山麓からの湧水だという。 この付近の左岸の斜面には、ニリンソウが群生している。 ここから林道浦山線を北西へ1Km進むと、カタクリの 群生地である浦山カタクリの里へ至る。そこからさらに 西へ1Km進むと、風早峠(児玉郡神川町上阿久原〜 矢納)となる。 |
(2)管理起点の付近(下流から) 皆野町金沢 写真(1)から500m下流。金沢浄水場から上流へ200m付近に 練り石積みの砂防堰堤がある。小山川の一級河川の 管理起点は浦山第一号堰堤なのだが、あたりには管理標石は 見当たらない。この付近では、小山川の右岸一帯が 上武産業の採石場となっているので、山奥なのに 大型トラックの往来が多い。更木地区の上武基幹林道入口から 住居野峠を越えて、県道289号線へ向かう車もあるようだ。 |
(3)身馴川橋の付近(上流から) 皆野町金沢 写真(2)から1.8Km下流。小山川へは多くの渓流や沢が 流れ込んでいる。身馴川橋の親柱の銘板では小山川の 表記が[おやまかわ]となっている。上流部では河川名の 誤記が多く、写真(6)の昭和橋でも同様だ。右岸橋詰には 若林嘉陵の碑(弘化元年)と身馴川橋改築の碑が 建っている。若林嘉陵は加増(かぞう)地区出身の学者。 |
(4)住吉神社の付近(右岸下流から) 皆野町金沢 写真(3)から500m下流。県道44号線と町道とのT字路に 鎮座するのが住吉神社。神社と薬師堂は崖上にあり、崖下は 小山川の渓谷となっている。住吉神社は児玉町稲沢から 勧請したのだが、明治18年には女嶽の山頂に奉遷し、 当地は里宮としたのだという。小山川は霊山の麓から 流れ出しているのだ。 |
(5)準用河川 見馴川起点の標石(上流から) 皆野町金沢 写真(4)から200m下流。東流して来た小山川は住吉神社の 下流から北流を始める。その変流点である出牛平橋交差点 (県道44号線)の付近に、準用河川 見馴川起点の標石が 残っている。標石の脇では小山川の右岸へ小六沢 (ころくさわ)が合流している。出牛平橋は小六沢の橋で 小山川への合流に架かっている。出牛平橋交差点から 南へ400mの金沢小学校には、大正時代に設置された 秩父郡金沢村の道路元標が残っている。金沢村の村社は 小学校の向かいに鎮座する萩神社だった(注3)。 |
(6)昭和橋の上流付近(上流から) 皆野町金沢 写真(5)から700m下流。小山川は県道13号線と県道44号線の 共有区間に沿って流れている。出牛交差点では県道13号 前橋長瀞線と県道44号児玉秩父線が分かれる。県道44号線は 明治時代に拓かれた秩父往還。この付近は児玉町太駄との 境界となる。小山川の川幅は約12m。コンクリート護岸が施され、 河床の岩は減り、礫と砂利の分布が多くなる。 昭和橋は光福寺への参詣橋。昭和橋と萩の宮橋の間の 区間には、歩行者専用の木の橋が架かっている。 |
(注1)現在の一級河川の管理起点は、秩父郡皆野町金沢4015、浦山第一号堰堤となっている。
ちなみに、新編武蔵風土記稿(江戸時代後期に編纂)の秩父郡金沢村(12巻、p.140)には
”身馴川:村の西 女嶽山の麓より湧出し、東流すること十七町許にして、村内にて曲折、
北流して児玉郡太駄村に達す。村を経ること凡二十二町程、川幅五間許”とある。
一方、女嶽山と相並ぶ男嶽山(標高592m)の山麓から流れ出るのが金山川であり、
この川は金沢の金山地区を経て、県道44号線に沿って南流し、皆野町下日野沢で
日野沢川へ合流する。日野沢川は皆野町大淵〜国神で荒川へ合流する。
金山川という名称は、男嶽山の山頂に金山神社が祀られているからだという。
小山川の源流部は、利根川水系と荒川水系の分水界にある。
(注2)身馴川が瀬枯れ(常時は水が流れていない状態)を起こしていたのは、
流水が河床の下を伏流していたからだろう(現在も水量が多いとはいえない)。
例えば身馴川の中流右岸に位置する美里町沼上には、かつて湖沼が
9箇所に分布していた。沼上は平坦な地形であり、谷地は存在しないので、
これらの湖沼は身馴川からの伏流水が湧水していたのだと思われる。
しかし、身馴川(小山川)の河川改修に伴い、次第に湧水量が低下し、
昭和50年頃に完全に枯渇してしまったという。それらの湖沼は
武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の児玉郡沼上村(8巻、p.112)に
記録が残っている。どれも水田のかんがいに使われていたようで、
最も規模の大きかった高縄池は、東西三十五間(63m)南北八間三尺(15m)
周囲二町十一間(236m)であり、水田13町(約13ha)へ用水を供給していた。
地味は”其色赤黒にして砂石を交ゆ 稲梁に宜しからす桑に適せり
水利不便時々旱に苦しむ”とあるので、砂質土で水はけが良いうえに、
農業用水の水量は不足していたことがわかる。
(注3)萩神社は古くは萩宮と呼ばれ、明治時代に出牛(じうし、じゅうし)地区から
移された。武蔵国郡村誌によれば、萩神社の祭神は須佐之男命。
出牛という地名は、日本武尊の東征のさいに、身馴川が増水して
渡れずにいた時に、牛が現れて武尊を対岸まで渡したという伝説に由来するのだという。
ただし新編武蔵風土記稿では、出牛の由来を”身馴川に牛ヵ淵と唱ふる所あり、
古此所より牛出しと云ふ”と記されている。
牛出しとは水制工(川の流れを制御する構造物)のことである。