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旧倉松落の区間

 
撮影地:埼玉県北葛飾郡杉戸町、春日部市

 倉持橋の付近
(1)倉持橋の付近(上流から) 杉戸町堤根
 県道183号線から1.2Km南の地点。奥に見えるのは
 新源内橋と倉松川水管橋。水管橋は埼玉県企業局が
 管理、倉松川の上を水道水を左岸側へと送水している。
 上流で一度、倉松川を伏越した中郷用水だが、
 この付近では再び、倉松川の左岸側に沿って流れている。
 水管橋の下流には幸手領第4揚水機場が設けられている。

   旧倉松川と倉松川改修記念碑
  (2)旧倉松川と倉松川改修記念碑(上流から) 杉戸町本郷
   写真(1)から1.6Km下流。ここは春日部市不動院野との
   境界である。堤根橋(県道319号線)から下流の倉松川の
   流路は昭和初期に放水路(中川へ排水する)として、
   開削されたもの。堤根橋の下流には旧倉松川と倉松川の
   改修記念碑(昭和18年建立)がある。また堤根橋の左岸橋詰には
   倉松落悪水路土地改良区の解散記念碑(平成6年建立)もある。

 旧倉松第二調節池
(3)旧倉松第二調節池 (下流から) 春日部市不動院野
 写真(2)から700m下流。旧倉松川の流路は調節池へと
 整備されている。旧河道(注)の形態をそのまま調節池へと
 転用したもので、景観は良好である。旧倉松川は幸松川と
 呼ばれているようだ。この付近は明治22年(1889)から
 昭和29年(1954)まで、北葛飾郡幸松村だった。
 幸松小学校などにその名が残る。

   
首都圏外郭放水路の流入口
  (4)首都圏外郭放水路の流入口 (下流から) 春日部市不動院野
   写真(3)から700m下流。国道16号線の春日部野田バイパスの
   北側に位置するのが、国土交通省の首都圏外郭放水路の
   幸松川流入施設。左岸に越流堤が設けられている。
   大雨などで倉松川が増水した時に、その洪水の一部は
   大落古利根川や中川の洪水流と共に江戸川へと導水される。

 めがね橋の付近
(5)めがね橋の付近 (下流から) 春日部市八丁目
 写真(4)から800m下流。写真の奥に架かる、
めがね橋
 明治24年(1891)竣工の4連アーチ橋(煉瓦造)。
 現在は道路橋として使われているが、本来は
 大落古利根川からの逆流を防止する水門だった。
 めがね橋の下流から旧倉松川はコンクリート護岸となり、
 都市排水路の様相が濃くなる。掘り込みが深くなった分、
 川幅は約5mと急激に狭くなる。両岸には住宅が建て込んで
 いるが、左岸側には公園や遊歩道が整備されている。

   旧倉松川の終点
  (6)旧倉松川の終点  春日部市八丁目〜樋堀
   写真(5)から400m下流。大落古利根川の左岸上流から撮影。
   旧倉松川は住宅地の中を流れ、最後は大落古利根川の左岸へ
   合流する。大落古利根川の左岸堤防を横断して、合流して
   いるのだが、樋門方式ではなく自然合流である。
   堤防の分断点には橋が架けられている。
   なお、合流地点から50m上流には、旧倉松排水機場
   (除塵機を併設)が設置されている。

(注)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の葛飾郡不動院野村(14巻、p.312)に、
 改修前の倉松落の記述がある。”倉松落:深六尺巾七間
 村の北方大塚村より来り
 南方小渕八丁目二村の間に入る
 長十一町四十間 安戸落 倉松落共に
 巾五六間許
 此二水は万治二年掘りて近年三十ヶ村の組合悪水落とせり”とある。
 明治初年度の時点で不動院野の付近では、倉松落の川幅は
 七間(12.6m)だったので、現在もそれほど変わっていない。
 ただし、最下流の1Km弱の区間だけは、都市型の水路改修が施されているので、
 河川敷が潰され、両岸の余剰地は宅地化しているので、川幅は狭い。

 なお、三十ヶ村の組合悪水とは、幸手領(主に葛西用水)の農業排水路と
 いう意味である。葛西用水の開削が万治三年(1660)とされているので、
 その前年に安戸落と倉松落は主要排水路として整備されたことになる。
 しかし前掲書によれば、不動院野村は元和二年(1616)に成立した新田村なので
 そのさいに低湿地開発の排水路として、何らかの悪水路が掘られたことは
 容易に想像できる。それらの悪水路を万治二年に再整備したのが、
 安戸落と倉松落だろう。

 ちなみに、北葛飾郡幸松村という名称は、その構成村(小淵村、不動院野村、
 八丁目村、樋籠村、樋堀村、牛島村、新川村)が幸手領と松伏領に
 跨っていたことに由来する。


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